ゴールデンゲートブリッジ…2007年秋~冬2010/02/02 23:26

  ジャック・ロンドン著、深町眞理子訳 
  『野生の呼び声』  
  2007年、光文社古典新訳文庫


 その夜の旅の一部始終については、男自身が問わず語りにしゃべりまくった。サンフランシスコの埠頭に近いとある酒場の裏の、小さな物置小屋でのことだった。
「それでたったの五十ドルぽっちだもんな、おれの手に入ったのは」と、男はぶつくさ言った。「もうこんりんざいお断りだね、たとえナマで千ドルくれると言われてもだ」


 サンフランシスコからソノマ・ナパ方面に出かける。アメリカのアグリビジネスの研修の一環としてワイナリーの見学などが組まれている。
 いったん空港に出て、高速バスに乗る。サンフランシスコ市街地は有名なケーブルカーをはじめ公共交通が発達しているが、ちょっと郊外に出ると完全な自動車社会になる。
 大きな橋を通過する。「もしかしてこれって金門橋」と思いながら、急いでカメラを取り出し、シャッターを切る。この研修に来る前はぎりぎり仕事に追われていたし、アメリカを横断する日程なので、その日のスケジュールを確認するのがせいいっぱい。だから、どこがゴールデンゲートブリッジなのか確認する余裕もなかった。


 サンフランシスコ市街地は密集しており、日本の都市のようだが、郊外へと近づくにつれて、空間的にもゆとりが出てくる。高速バスで金門橋を一気に突っ走る。爽快な気分だ。ゴールデンというけど赤い橋。けっこう走行時間は長い。全長は3000メートルくらいあるらしい。


タワーブリッジ(その1)…1997年夏2010/02/05 21:57

 夏目漱石著 
 「倫敦塔」
 『倫敦塔・幻影の盾』  
 1952年、新潮文庫


 この倫敦塔を塔橋の上からテムズ河を隔てて目の前に望んだとき、世は今の人から将た古えの人かと思う迄我を忘れて余念もなく眺め入った。冬の初めとはいいながら物静かな日である。空は灰汁桶を掻き混ぜた様な色をして低く塔の上に垂れ懸って居る。壁土を溶し込んだ様に見ゆるテームスの流れは波も立てず音もせず無理やりに動いて居るかと思わるる。


 「ロンドン橋落ちた 落ちた……♪」という歌もあるように、ロンドンというとこの橋が名所かと勘違いしてしまう。実際に、ロンドン橋は18世紀半ばまではテムズ川にかかる唯一の橋だったらしい。そして歌にもあるように、何度も倒壊を繰り返したとのこと。
 ロンドンで有名な橋というと塔橋(タワーブリッジ)があげられる。名所であるロンドン塔を訪れれば、この橋が近くにあるのですぐ目につく。この橋は見ての通り、美しいだけではなく、跳ね橋になっていること。橋が上方に跳ねれば大型船も通過できる。


ウェストミンスター橋…2008年夏2010/02/09 21:00

 夏目漱石著 
 「カーライル博物館」
 『倫敦塔・幻影の盾』  
 1952年、新潮文庫

 カーライル又云う倫敦の方を見れば眼に入るものはウェストミンスター・アベーとセント・ポールズの高塔の頂のみ。その他幻影の如き殿字は煤を含む雲の影に去るに任せて隠見す。



 イギリスは好景気の真っ只中。ピカデリー・サーカスのあたりは世界各国からの人たちで賑わっていた。ここからゆっくり歩いて、国会議事堂、首相官邸のあるあたりへ。ウェストミンスター地区は、ウェストミンスター宮殿(国会議事堂)、ウェストミンスター寺院、セント・マーガレット教会など見所が多い。 
 ウェストミンスター橋はロンドンの風景に見事におさまっている。橋のあたりにはおおぜいの観光客がいる。それでも新宿のアルタ前のような混雑ぶりのピカデリー・サーカスに比べると、この橋のあたりはゆったりしてしている。


 最近ではロンドン・アイの方が目立ってしまう。何時間も行列に並ぶ必要ありとのことで、時差ぼけの疲れもあり、あきらめることにした。夕暮れ時に川に沿って歩き、ロンドンの風情を楽しんだ。
 

聖ワシリー寺院…1980年夏2010/02/12 23:28

 トルストイ著、工藤精一郎訳
 『戦争と平和(四)』
 2006年、新潮文庫


 クレムリンの強化は、そのために回教寺院 (ナポレオンはワシーリイ・ブラジェンヌイ寺院をこう呼んでいた)を取りこわさねばならぬほどの工事だったが、まったく無益な工事であることがわかった。クレムリンの下に地雷をしかけたことも、モスクワを去るときにクレムリンを破壊しようという皇帝の希望の実現を助けただけで、まるで子供が床にころんで、八つ当たりして床をなぐりつけるようなものだった。


 モスクワにて。クレムリン、赤の広場の近くに、この葱坊主の形をした寺院がある。正確にいえば、赤の広場の敷地内にこの寺院がある。この界隈に来れば、日本人がステレオタイプでロシアやモスクワの象徴だと思っているものがほとんど見られてしまう。当時のソ連では神様のように思われていたレーニンの廟もある。
 さて、赤の広場、クレムリンというと、革命、権力と直結し、ものものしい雰囲気が漂っているが、それに比べると、この寺院はユーモラスなところもあり、ある種の親しみを持つことができる。単にとんがっているだけではなくて、葱坊主の丸々とした形状は見るものの心を落ち着かせる。
 ところが、この聖ワシリー寺院にも恐ろしい逸話が残っている。あまりにも美しい寺院に感動したイワン雷帝は二度と同じような建物が造られないようにと、設計者の目玉をくりぬいたということだ。ロシア・ソ連の指導者については、こんな話に事欠かない。

聖イサク寺院…1980年夏2010/02/16 22:14

 ドストエフスキー著、工藤精一郎訳
 『罪と罰(上)』
 1987年、新潮新書

 彼は自分におどろいた。ラズミーヒンは大学の頃の友人の一人だった。ことわっておくが、ラスコーリニコフは大学当時はほとんど友だちというものを持たず、みんなをさけて、誰のところへも行かないし、人が来てもいい顔をしなかった。そんなふうだから間もなく誰も相手にしなかった。彼は学内の大会にも、学生同士の話にも、娯楽にも、どんなことにもいっこうに加わろうとしなかった。勉強には精を出し、骨身を惜しまなかったから、学生たちは彼に一目おいていたが、誰一人彼を好きになる者はなかった。



 ロシア語研修のためレニングラード(現在はサンクトペテルブルク)に滞在していた時、アストリア・ホテルに宿泊していたが、すぐそばに聖イサク寺院があった。このあたりは、レニングラード市の中心地。最初の由来は、ピョートル大帝の時代に別の場所に聖イサク教会が建てられたが、焼失したため、再建が図られた。この地の聖イサク寺院はアレクサンドル1世の時代に完成している。
  中に入ると思ったよりも広い。外から見た感じではそれほど大きく感じられなかったのだが。そこではフーコーの振子の実験を証明するものがあった。
 ホテルの部屋からもこの寺院が見えた。夕陽に映える寺院の姿はこの上も無く美しく見えた。夏は白夜で、夜中にならないと陽が沈まなかった。寝る時は厚いカーテンを閉めて、陽光が入らないようにした。

カザン寺院…1980年夏2010/02/19 22:26

 ゴーゴリ作、平井  肇訳
 「外套」
 『外套・鼻』
 2006年、岩波文庫

 翌日になるとひどい熱が出た。ペテルブルグの気候の仮借なき援助によって、病勢が予想外に早く昂進したため、医者は来たけれども、脈をとって見ただけで、如何とも手の施しようがなく、ただ医術の恩恵に浴せしめずして患者を見殺しにしたといわれないだけの申し訳に、彼は湿布の処方箋を書いただけであった。



 レニングラード(現在はサンクトペテルブルク)のカザン寺院が一つの目印、拠点となった。繁華街のあるネフスキー大通りの近くで、利便性も高く、散歩やショッピングをするにも最適の場所だ。
 知り合いになったロシア人、ウクライナ人との待ち合わせ場所としても利用した。「明日はカザン寺院に午後3時に」などというせりふをお互いよく使っていた。彼らは時間にルーズで、遅れることも珍しくなかった。それでも、敷地内は公園にもなっていて、ベンチもたくさんあって、待ち時間をゆったりと過ごすこともできた。何よりも人間の生活リズムがのんびりとしていた。
 日本語の新聞を読んでいると物珍しそうに近寄ってきて、話かけてくる人もいた。当時、ソ連のホテルで買えたのが『毎日新聞』と『赤旗』。インターネットもないし、たまに古い記事を読めるだけだから、直近のニュースが分らない。
 カザン寺院に限らず、どこにいても闇の両替屋さん(といっても普通の市民だが)がよく現れた。「ドル、ドル」と叫んで、近づいてくる。

タワーブリッジ(その2)…1997年夏2010/02/21 09:22

 夏目漱石著 
 「倫敦塔」
 『倫敦塔・幻影の盾』  
 1952年、新潮文庫

 帆懸舟が一隻塔の下を行く。風なき河に帆をあやつるのだから不規則な三角形の白き翼がいつ迄も同じ所に停って居るようである。伝馬の大きいのが二艘上って来る。只一人の船頭が艫に立って艪を漕ぐ、これも殆ど動かない。塔橋の欄干のあたりには白き影がちらちらする、大方鴎であろう。見渡した処凡ての物が静かである。物憂げに見える、眠って居る、皆過去の感じである。



 タワーブリッジに向かって歩く。橋は歩いても、渡れるようだ。天気は快晴。ダブリンを観光して、またロンドンに戻ってきたので、この街が懐かしく感じられる。こじんまりしたダブリンも良かったが、大都市ロンドンは見所も多く、やっぱり魅力的だ。
 タワーブリッジは歩道もあって、ゆったり歩けるようになっている。下を見下ろすと、テムズ川を観光客を乗せた船が航行している。天気は快晴。絶好の観光日和だ。


 観光客がおおぜい歩いている。人と車が橋を渡る。名物の二階建てバスも橋を通る。道はあまり広くないので、制限速度は低くおさえられている。人間も自動車もゆったりしたリズムで移動する。水色を基調とするケーブルが風景に溶け込んでいる。

聖パトリック大聖堂…1997年夏2010/02/23 20:05

  ジェイン・ジェイコブズ著、中谷和男訳
  『壊れゆくアメリカ』
  2008年、日経BP社

 アイルランド民族は自分たちがだれであり、なにに値するかを決して忘れることなく、自分たちの貴重な文明を放棄することを拒否した。かれらはこの奇跡を『歌』という一見はかなげな手段によって達成したのだった。アイルランド民族とその子孫たちは 自分たちの歌によって、彼らが失ったものを決して忘れることはなかった



 熱心なカトリック信者の多いアイルランド。宗教的な行事のポスターなども目につく。聖パトリック大聖堂はダブリンの観光名所としては最もみどころがあるものの一つである。
 ダブリンは東京、ロンドンなどの大都市に比べると小さな首都なので、ガイドブックや地図を片手に、徒歩で大概のところは行けてしまう。聖パトリック大聖堂もすぐに見つかる。

 建物の中にいたら、お腹のあたりから始まって、急に身体がポカポカしてくる。不思議な現象だ。宗教的な啓示があったというわけでもないだろうが。

  アイルランド社会はケルト文化の影響も受けている。大聖堂の近くではケルト十字が発見されており、展示されていた。

 後から知ったことだが、この聖パトリック大聖堂はカトリックではなくて、プロテスタント系の建物で、アイルランド国教会の所管であるとのこと。アイルランドというとカトリックのイメージが強いので、カトリック系の教会と思い込んでいた。キリスト教の信者であれば、プロテスタントとカトリックの教会が異なっていることは容易に分るのだろうか。

セント・メアリー教会…2008年夏2010/02/26 20:59

 L・キャロル著
 矢川澄子訳、金子國義絵
 『鏡の国のアリス』
 1994年、新潮文庫

「へーえ、なるほど、そういうことを本に書くという手もあったか」ハンプティ・ダンプティはやや落ち着きをとりもどし、「いわゆる英国史ってやつだな、そいつが。どうだい、ぼくをよくごらんよ。王様とじきじき口をきいたことのある、このおれさまをね。きみ、二度とこんな人物に会えないだろうよ。いや、べつに鼻にかけてるわけじゃない。その証拠に握手させてやるぜ」そういうとにんまり、耳から耳までさけそうなわらいをうかべて、前に身をのりだし(すんでのことにすってんころん落ちそうになって)、アリスに手をさしだした。アリスはその手をにぎりながら、内心はらはらして相手をみつめる。「これ以上わらったら、口の両端が頭のうしろでつながっちゃいそう」と思ってね。「そしたら、このひとの頭はどうなっちゃうの?われておっこちるんじゃない?」



  イングランドのオックスフォードは誰もが知っている大学街。ロンドンから電車で1時間くらいで行けるので、日帰りも十分可能。ケンブリッジとオックスフォードどちらに行こうかと贅沢な選択に直面する。知り合いにエセックス大学に留学した人がいたが、オックスフォードの方が観光としては面白いよという意見も参考に、オックスフォード行きを決めた。ルイス・キャロルが学び、数学者として教壇に立ったのもオックスフォードだ。

  セント・メアリー教会はオックスフォードを代表する教会。主要な通りであるハイストリート沿いにある。この通りはかなり賑わっている。昼食時もかなり混んでいて、店を探すのに苦労した。この教会の塔は60メートルほどの高さ。市内が眺望できるだけに、最高のスポット。

  13世紀に建てられた由緒ある教会で、学位授与、大学の会議に使われていたとかで、まさに信仰、学問という精神生活における重要な拠点だったといえよう。