セント・スティーブンズ・グリーン公園…1997年夏2010/07/02 21:43

フランク・オコナー著、阿部公彦訳 
「マイケルの妻」
『フランク・オコナー短編集』  
 2008年、岩波文庫

「これを飲みな」トムが勧めた。「薄いから害はないよ」
 彼女が断ると、居合わせた他のふたりがそれを手に取った。トムは「この人の黒い目に乾杯」とやってから、一息にグラスのものを飲み干した。それから満足げに息をついた。

   補助司祭は酔っぱらい 助産婦もぐてんぐてん
   僕はウィスキーのたらいで洗礼を受けたのさ
 

 アイルランドの首都ダブリン中心部にある、面積9ヘクタールの公園。元は私有の庭園だったが、ビール醸造会社ギネスの創業者の孫、アーサー=ギネス卿が議会に働きかけ、1877年に市民のための公園になった。そのギネスの像がある。

 そのほか、詩人・劇作家のウィリアム=イェーツの記念碑、作家ジェームズ=ジョイスの像などがある。ダブリンの繁華街からも近く、徒歩で観光していただけに、休む場所としてもうってつけだった。

 アイルランドのシンボルカラーは緑。それにふさわしい公園で、きれいな芝生、花園があり、池には水鳥もたくさんいて、くつろげた。

プリンセス・ストリート・ガーデン…2008年夏2010/07/06 21:28

イアン・ランキン著、延原泰子他訳
「キャッスル・デンジャラス--リーバス警部の物語--」
『貧者の晩餐会』
2004年、早川書房

 ぜいぜいと荒い息を吐きながら、リーバスは小さな戸口を通って頂上へ出ると、しばらく立ち止まって息を鎮めた。目の前に広がる景色は、文句なくエジンバラ随一である。すぐ背後にはエジンバラ城があり、前方にはニュー・タウンのパノラマ、その先にはなだらかな下り坂となってフォースの入り江と続き、リーバスの生まれ故郷であるファイフが遠くにかすんでいる。さらにコルトン・ヒル……アーサーズ・シートの丘……そして城へと景色は一周して戻る。それは息を呑むほどの絶景であり、階段を上がったために息を切らしていなかったら、リーバスだって息を呑んだにちがいない。


 
 スコットランド。新市街と旧市街に分かれるエジンバラは魅惑的な街。ロイヤル・リンセス・ストリート・ガーデンを起点に、エジンバラは新市街と旧市街にわかれている。旧市街は石畳を中心とした狭い道が主で、スコットランドの重厚な歴史を感じさせる。他方、新市街は近代的な街並みが続くが、ただ新しいだけという軽薄さは感じられない。やはり、歴史や重みのあるたたずまいとなっている。

 エジンバラ城の下方に展開しているプリンセス・ストリート・ガーデンはエジンバラ城の堀を埋め 立てて、つくった公園。エジンバラ市民の憩いの公園である。芝生にそのまま座ってもいいし、ベンチも多い。この時期は観光客も多いが、地元の人たちもけっこういるようだ。
                                                                
 ロンドンにあるような巨大な公園ではないが、ゆったりできる。緑も多くて、美しい草花にも恵まれている。欧米の公園の良いところはベンチがたっぷりあること。それに比べると、日本の公園は訪問者にゆっくり滞在してもらうだけの十分なベンチ等がない。

シャンゼリゼ通り…1998年夏2010/07/09 21:40

ヘミングウェイ著
『移動祝祭日』
2009年、新潮文庫

 だが、パリはとても古い街であり、私たちはまだ若く、そこでは何一つ単純なものはなかったのである。たとえ、それが貧困であれ、突然転がり込む金であれ、月の光であれ、善悪であれ、あるいは月光を浴びてかたわらに横たわっている女の息遣いであれ。


 フーケという有名なカフェを紹介したことがあるが、今度はこのフーケから通りを見てみよう。そのフーケの一番いい席からシャンゼリゼ通りを見ると、こんな感じ。早朝だっただけに、まだ人気も少ない。夏の真っ最中だけに、多くのビジネスマンはバカンスに出かけているのかもしれない。フランス人やドイツ人が大きな荷物を持って、一箇所に長いこと滞在しているのを見ると羨ましくなる。こちらはいつも駆け足旅行。この日はパリを去る日だけに、名残惜しい気持ちになって、フーケで紅茶を飲む。


奴隷慰霊碑…2007年秋~冬2010/07/13 22:14

フレデリック・ダグラス、「奴隷にとって七月四日とは何か? 1852.7.5」
荒このみ翻訳、『アメリカの黒人演説集--キング・マルコムX・モリスン他--』
2008 年、岩波文庫

 深く静かな真夜中の暗闇に、私の家の前を通る、死んだように重い足音や、鎖でつながれた一群の哀れな泣き声を聞いて、私はしばしば目を覚ましました。少年だった私の苦悶は大きかったのです。朝になると、私はそのことを女主人に話しました。すると女主人は、この習慣はとても悪いもので、鎖がガチャガチャ鳴る音や、心からの悲痛な叫び声を聞くのが辛いと言いました。私の恐怖と同じように感じてくれる人がいて、ホッとしました。



  ワシントンDC郊外のマウント・バーノン。ジョージ・ワシントンの私邸だが、大統領の官邸としての役割も果たした。ワシントン自身は大統領になってからも農業に従事したし、多くのお客さんを受け入れ、もてなした。
   しかし、こうした大掛かりな邸宅の運営を支えた影の存在がある。奴隷である。マウント・バーノンの敷地内に奴隷慰霊碑が立っている。ここを訪れた人は一瞬立ち止まる。多くの人が写真を撮っていく。慰霊碑は直接声を発することはない。しかし、この沈黙の中に重苦しいあまたの声が聞こえてきそうだ。

全米日系米国人記念碑(その1)…2007年秋~冬2010/07/16 21:14

山崎豊子著
『二つの祖国(第一巻)』
2009 年、新潮文庫

 馬小屋の生活であったから、ゆっくり話せる場所といえば、そんなところしかなかった。賢治と林はスタンドへ行き、鉄骨の大きな屋根に出ている陰に坐った。
 かつてレースの度に何万という観客を吞み込み、サラブレッドの華やかなレースを展開してきた米国屈指のサンタ・アニタ競馬場の馬場には、一万余の日系人が詰め込まれ、さらにその周囲の空地には、新たに日系人を収容するためのバラックが、どんどん建てられている。



 ワシントンDC。滞在中に荷物が増えたため、バッグを買いにユニオンステーションへ。そこからは連邦議会までは歩いていける。議事堂の近くに、日系人の記念碑があった。第二次大戦中、日系アメリカ人は敵性国民として、全米各地の収容所に入れられた。この記念碑は、そうした行為を謝罪するとともに、賠償を行うことを印すためにつくられた。


 1983年にこうした集約がなされた。このことが話題になっていた1983年にも訪米したが、日本人や日系人の中からは賠償を受けることに反対する声も聞こえてきた。最終的には、1988年にレーガン大統領が関連法に署名して、アメリカ政府が謝罪し、賠償金が支払われることになった。

全米日系米国人記念碑(その2)…2007年秋~冬2010/07/20 20:17

マイク・正岡、ビル・細川著
塩谷紘訳
『モーゼと呼ばれた男マイク・正岡』
1988年、TBSブリタニカ

 戦時情報局は日本向けの放送の中で、このテーマを取り上げた。情報局によれば、ファシズムと戦っている第四四二部隊は、軍部独裁に束縛される日本の一般国民のためにも戦っているのだった。我々日系人だけで結成された部隊で戦っているのはなぜか、という質問もあった。私の答えはこうだった----第四四二部隊はアメリカの人種主義の産物ではなく、我々にとっての一つのチャンスであり、たとえ虐待されて来たとしても、我々はこの国を信ずるが故にその防衛のために志願したことをここで示すために、この部隊で戦っているのだ。



 全米日系人記念碑には著名な日系人の名前が出ている。下院議員をつとめたロバート・マツイや下院議員や閣僚をつとめたノーマン・ミネタの名前もある。ノーマン・ミネタは民主党員でクリントン政権で商務長官をつとめた。さらに共和党のジョージ・W・ブッシュ政権でも運輸長官をつとめている。地元のサンノゼ国際空港は、ミネタの功績に敬意を表し、「ノーマン・Y・ミネタ・サンノゼ国際空港」という名前がついている。


 そしてマイク・正岡の名前もある。正岡というと、日系アメリカ人の中でも無視することができない重要人物である。正岡はモルモン教の熱心な信者、第二次世界大戦中に日系二世の部隊の結成を推し進めた人物としても有名である。


 ワシントンにちょっと詳しい人なら、そこに正岡氏が始めた「マサオカ・アソシエイツ」というコンサルティング会社があることを知っている。さて、この記念 碑については、日本人や日系人以外はあまり関心がないようだ。ちらほらと観光客が訪れる程度。ひっそりとした敷地の中に記念碑は立つ。


ワシントン記念塔(その1)…1983年夏2010/07/23 20:06


ディケンズ著、伊藤弘之・下笠徳治次・隈元貞広訳
『アメリカ紀行(上)』
2005年、岩波文庫

 現在あるこのままに、ワシントンはこれからも存続し続けるだろう。ここが政府所在地に選ばれたのは、もともと、各州の相対立する嫉妬と利害を避ける手段と してであり、また、大いに考えられることだが、大衆から離れている場所としてであった。それはアメリカにおいてさえも軽視され得ない考えなのである。



 とても暑いワシントンDCの夏。せっかくワシントンに来たのだから、ワシントン記念塔にのぼる。ワシントンD.C.のまん中にあり、どこにいてもよく見える。オベリスクとかワシントン・モニュメントという名前もある。1776年の独立戦争の時に、初代大統領であるジョージ・ワシントンの栄誉を記念して、つくられたという。当然のことながら、その後は何度も補強されたり、エレベーターが設置されたりしている。


 塔にのぼるとワシントンDCの街並みがよく見える。人工的に設計された都市であることを再認識することができる。


 反対側に回ると、街の様相は少し異なってくる。ワシントンDCは概観すると美しい街だが、ホワイトハウスや議事堂の近くでさえ治安の悪いところも少なくない。


 聞き違いだったかもしれないが、夜のワシントンで拳銃の音を聞いた。それはさておき、夜のワシントンも趣があり、記念塔もきれいな姿を見せている。


ワシントン記念塔(その2)…2007年秋~冬2010/07/27 20:02

ローラ・リップマン著、吉澤康子訳
『スタンド・アローン』
2000年、ハヤカワ・ミステリ文庫

 テスはこの地区を非常によく知っていたが、そのチェッカーボードのような特長にはどうしても慣れることができなかった。修復されたタウンハウスが一ブロック続いたあとに、突如として連続住宅のスラム街が出現するのだ。ボルチモアでは、付近の環境は良いか悪いかであって、厄介な場所を避けるのはたやすい。キャピトルヒルでは、一杯三ドルのコーヒーと十ドル分のヘロイン入りの包みが、五分以内で買えた。いったん間違った角を曲がると、一躍、『虚栄の篝火』個人版の主人公になってしまう。



 議事堂からから見たワシントン記念塔。デジカメの登場、その性能の向上ゆえ、時代が新しくなるほど、写真もきれいになる。この時から1年ちょっと経って、バラク・オバマが議事堂で大統領就任演説を行った。2009年1月20日は、この写真の周辺も含めて、ワシントンDCは多くの聴衆で埋め尽くされていたのだろう。
  右手に見えるのは、ユリシーズ・シンプソン・グラントの像で、南北戦争で活躍した将軍でもあり、第18代アメリカ合衆国大統領になった人物でもある。北軍に勝利をもたらした将軍として、ほとんどの人はその名前は聞いたことがあるだろう。

アーリントン墓地(その1)…1983年夏2010/07/30 22:46

Yona Zeldis McDonough(Author), Jill Weber(Illustrator)
Who Was John F. Kennedy? (who Was...?)
2004, Grosser & Dunlap, New York

 ジャックはボウドイン通り122の小さなアパートに引っ越した。これが彼の残りの人生における投票のための住所となった。そして、彼はボストン11区の人たちの知り合いになる必要があった。ここは安い賃金で長時間労働をしている男女が多い労働者階級の地区だった。
 最初は、ジャックが勝てると思った人は誰もいなかった。彼は普通の政治家のようには思われなかった。演説をすることは彼には難しかった。彼はどもったり、途切れたりした。しかし、だんだんと彼は有権者に届く言葉を見つけた。(拙訳)



 アーリントン墓地はワシントンDC地域にある。無名戦士を含めた戦没者を慰霊するとともに、政治指導者など名望家の墓が置かれている。バージニア州のアーリントンにある。ワシントンDCは小さな地域であるために、ちょっと移動するとバージニア州、メリーランド州に出てしまう。DCだと思っていても、どちらかの州だったりする。
 J・F・ケネディ大統領の墓があった。この時はジャクリーン・ケネディが存命中だった。後にジャクリーンが亡くなると、夫と並んでアーリントン墓地に埋葬された。期待された若き大統領。キューバ危機という最大の試練にも直面した。あまりにも悲劇的な最期。ケネディについての記憶はない。だから、身体でケネディを体験していない。もう少し年上の人はケネディ暗殺のことをはっきり覚えている。ケネディの墓の火は消えることはない。功績も悲劇もアメリカ史上、人類史上に永遠に刻まれる。