ベルリンの壁(その3)…2001年夏2010/09/03 19:39

Z・ムリナーシュ著、相沢久監訳、三浦健次訳
『夜寒』
1980年、新地書房

「しかし、きみたちの国は、第二次大戦中にソ連将校兵が進駐した地域内にある。われわれはきみたちの国のために大きな犠牲を払ったのだから、そこから立ち去るつもりない。きみたちの国境は、われわれの国境である」

 (1968年、ソ連の衛星国であったチェコスロバキアで、ドプチェク共産党第一書記の主導の下、自由化への変革を目指す動きがあったが、ソ連の軍事介入によって挫折した。後に、チェコの指導者がクレムリンに呼ばれた。その時、ソ連のブレジネフ書記長が行った発言)


 ベルリンの壁は東西分断の象徴として、また一部の東ドイツ市民にとっては自由への窓口として、冷戦のシンボルのように捉えられていた。スパイ小説や映画にもたびたび登場している。
 ドイツが東西に分割され、東側にあったベルリンがまた東西に分割された。それでは、もし仮に、ドイツが東西に分割され、西ドイツ側にあった一都市が東西に分割されたとしたら、そこだけ共産圏という一角ができていたのだろうか。東側の政府がそこだけを内側から壁をつくることを行ったのだろうか。 
 ベルリン分割時代には、チェックポイント・チャーリーと呼ばれる有名な国境検問所があった。


 この検問所があった辺りには、それを記すものがある。アメリカ兵とソ連兵の写真が対照的に掲げられている。これがソ連兵。


 こちらはアメリカ兵。こちらに来れば、ここから先は西側ということになる。だからこのアメリカ兵は東ベルリンを見ている。逆に、さっきのソ連兵は西側を見ている。


 これはソ連のブレジネフ書記長。ブレジネフと言えば、派手さやカリスマ性には欠けるが、長年にわたってソ連の最高指導者として君臨し、東側の衛星諸国を徹底的に締め付けた。

フォールトレッカー開拓記念碑…2004年夏2010/09/07 19:48

『鉄の時代』
J・M.クッツェー著、くぼたのぞみ訳
2008年、河出書房新社

 ともに還って、血の海となる----この世が終わればそうなるのだろうか。万人の血----青いシベリアの冬空の下で、暗い緋色に染まるバイカル湖、険しい氷壁がそれを囲み、白い雪におおわれた岸にひたひたと打ち寄せるのは粘つき、淀んだ血。本来の姿にもどった、人類の血。血の総体。あらゆる人間の?いやちがう----別の場所では、有刺鉄線がはりめぐらされたカルーの、太陽がぎらぎらと照りつける、土壁に囲まれた貯水池のなかでは、アフリカーナーとそれに媚びへつらう者たちの血が、淀み、濁っているのだ。



 南アフリカのヨハネスブルグのホテルに滞在していたが、ここはあまりにも治安が悪く、ダウンタウンの観光はコースに入っていない。そこでより安全なプレトリアを観光することになる。
 プレトリアの一つの見どころがフォールトレッカー開拓記念碑だ。小高い丘にある巨大なモニュメントである。オランダ系アフリカ人が欧州大陸を離れ、南アフリカに定住した歴史を示した記念碑である。


 現地人との戦争だけでなく、イギリスとも独立戦争を戦うなどアフリカーナーの歴史は苦難に満ちていた。牛車の絵があるなど、彼らの祖先が農民であったことが理解できる。

ベンタイン市場…2004年春2010/09/10 21:07

マルグリット デュラス著、清水徹訳
『愛人(ラマン)』
1992年、 河出文庫

 十五歳半。それは河の横断だ。サイゴンに戻るとなると、旅をすることになる。とくにバスを使うときは。あの朝わたしは、母が校長をしている女子小学校のあるサデックからバスに乗った。休暇の終わりのことなのだけれど、さて何の休暇だったか。母の小さな官舎に行って休暇をすごしたところだった。そしてその日、わたしはサイゴンの寮に帰ってゆく。現地人用バスはサデックの市の立つ広場から出た。いつものように母がついてきてくれて、運転手にこの子を頼みますよと言った、いつでも母はサイゴンのバスの運転手に、事故があったら、火事が、暴行が、バスの乗っ取りが、渡し舟のとんでもない故障があったりしたら、この子を頼みますよと言うのだ。いつものように運転手は、自分の横の、前の座席に、白人旅客用の席に私を坐らせた。



 ベトナムのホーチミン。旧南ベトナムの首都で、サイゴンという昔の名前の方がしっくりくる。ベンタイン市場はホーチミンの中でも一番の見所だ。ホテルから近かったせいもあり、ホーチミンに到着するなり、この市場に出かけた。


  衣類、食べ物などいろんなものがある。ゆっくり見て回ろうという気分になっていたが、他の場所と同じく、売込みがあまりにもしつこいのでついつい速足になってしまう。暑い国だけに、南国のフルーツも売っている。


 ベンタイン市場を出て通りを渡ろうとするが、バイクがあまりにも多く、タイミングをはかるのが難しい。市場から外に出ると、観光客目当てのバイタクやシクロが待ち構えている。ホーチミンで歩いていると一日に何十回も声をかけられる。

清平市場…1999年春2010/09/14 08:40

イブン・バットゥータ著、前嶋信次訳
『三大陸周遊記 抄』
( 中央公論新社、2004年)

 こうしてスィーン・カラーン、すわなちスィーヌッ・スィーンに着いた。ザイトゥーンと同じく、ここでも陶器を製しているが、アービ・ハイヤー(生命の河)が海に流れ入るのもこの地である。それで「二つの海の交会地」と呼んでいる。都市の中でももっとも大きいものの一つで、その市場もきわめて立派である。ことに陶器市はもっとも大規模で、陶器をシナ各地やインドやヤマンなどに積出している。  (注)スィーン・カラーンは広州のこと


 香港から鉄道で広州にやってきた。広州といえば清平(チンピン)市場。ここ広東の地では、「飛ぶものは飛行機以外、四つの足のあるものは机以外」 は何でも食すると言われているように、豊かな食材を使って料理をつくることが知られている。
 そして、この清平市場は犬や猫などのゲテモノの食材が売られていることでも有名だ。この時は、地下鉄もなかったので、ホテルで朝食を食べてからタクシーで清平市場に直行した。
 朝早いせいだったのか、あまり市が出ていない。ものすごい動物がいるのかと期待もしていたが、閑散としている。それでもなかなかも風情はある。シャッターチャンスを逃してしまったが、ダンボールの中に小さな子猫がいた。ある老人がその猫をなでて、物色していた。果たしてペット用なのか、食用なのかはよく分からなかった。亀とかイモリみたいなのもいる。これは食用なのだろうか。

生きた鶏のいる市場…1999年春2010/09/18 01:04

『鉄の時代』
J・M.クッツェー著、くぼたのぞみ訳
2008年、河出書房新社

 とにかく彼が屠っているのは家畜ではない。とにもかくにも、たかが鶏、はかな鶏目と誇大妄想を抱えた鶏なんだ、と自分にいいきかせた。それでも、わたしの心は農場から、工場から、自分のかたわらで暮らす女性の夫が働いている企業から、離れようとしない。後はそこで、くる日もくる日も、あの柵をまたぎ、右に左に、前に後ろに、次から次へと、血と羽根の臭気のなかて、憤慨して鳴きわめく、けたたましい騒ぎのなかて、手を伸ばし、つかみあげ、押さえ込み、縛りあげ、吊るす作業をしていたのだ。


 広東州広州市。場所はどこあたりだったかよく覚えていない。たぶん、広州物園と南越王墓博物館の近くだったと思う。ショッピングセンターだか市場だかがあったので、のぞいてみた。鶏を扱っているところがあった。かつてのソ連もそうだったが、冷蔵庫が発達していないところでは生きたままの鶏を売ったり、その場でさばいたりしていた。新鮮さを保つためには、この方法が一番だろう。中国も経済的に急速に発展を遂げてきている。10年ほど前の写真だが、大昔の風景なのかもしれない。


ワシントンの青空市場(その1)…2007年秋~冬2010/09/21 20:54

ローラ・リップマン著、吉澤康子訳
『スタンド・アローン』
2000年、ハヤカワ・ミステリ文庫

 ボルチモア市長は、毎朝起きたあとで、顔に大きな笑みを浮かべて南を向くと、広く信じられている。自分の街がどれほどひどくても、首都のワシントンはさらに目もあてられない状態だと期待できるからだ。殺人事件発生率はより高く、学校はもっと荒れ、道路の穴はうんと大きく、前科のある麻薬使用者が幅をきかせているワシントンは、やがてさじを投げ、あらゆる混乱を野放しにしてしまった。テスの車ががたがた揺れながらキャピトルヒルにあるネルソン夫妻の学校をめざしているあいだ、ワシントンの道路は、そう、ものごとはどこまでもひどくなりうるのよ、と歌っているようだった。

 

 土曜日にワシントンに到着して、翌日日曜日も休養日だった。ただ、朝一番に市場の視察が入っていた。デュポン・サークルという地域で開かれていた青空市 場。市民団体が主催している。ボランティア団体なので、関係者の給料はかなり安いと言っていた。


 最初の公式日程だったので、この時のことはよく覚えている。時差ぼけもあったが、比較的意識ははっきりしていた。デュポン・サークルはシンクタンク等も多い場所だ。お洒落なレス トランや美術館もある。ここに来ているお客さんは洗練された人が多い。


ワシントンの青空市場(その2)…2007年秋~冬2010/09/24 20:20

シドニィ・シェルダン著、天馬竜行訳
『空が落ちる(下)』
2001年、アカデミー出版

 ダナがワシントンのダレス空港に降り立つと、ダレー夫人がケマルと一緒に迎えに来ていた。久しぶりにケマルを見て、ダナの胸の中で抑えられていたものがわっとよみがえった。彼女は両手を大きく広げ、ケマルを思いきり強く抱きしめた。彼女の腕の中でケマルが言った。
「ハイ、ダナ。帰ってきてくれてうれしいよ。クマのおみやげ持ってきてくれた?」
「ええ、持ってきたんだけどね。途中で逃げられちゃった」


 カラフルな果物、野菜が沢山ある。バターナッツと書かれた野菜がある。日本のスーパーで見かけない野菜だ。どうやって料理するのだろうか。ただ見ていてだけで、楽しくなる。アメリカでは何もかもが大きい。国土も、人間も、野菜も。


 「お金を払う時は直前に」という注意書きもあった。あまりに早く財布を出すと泥棒に狙われるから注意しろということだ。青空市場の一つの売りは、生産者の顔が見えること、新鮮な食材が手に入ること、と関係者が言っていた。


ワシントンの青空市場(その3)…2007年秋~冬2010/09/28 19:45

ジェームズ・M.バーダマン、村田薫編集
『アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書 EJ対訳』
2005年、ジャパンブック

 合衆国という新しい国には首都が必要でした。そこで北と南の中間となる場所が選ばれました。発明家、天文学者、数学者、そして地図製作者であったアフリカ系アメリカ人のベンジャミン・バネカーは、新しい町の調査・設計を担当する委員会で働きました。この新しい町が誰にちなんで名づけられたかはご存知でしょう----そこはワシントン、コロンビア特別区(ワシントンD.C.と略します)と名づけられました。



 キーウィと書かれている。よく見ると、クレープキーウィと書かれている。これは小型のキーウィで、普通のものよりは甘い種類のものらしい。左側は日本のサツマイモのような野菜だ。この日は天気も良くて、市場を視察するには最高の日だ。その他、有機野菜も多く売られていた。ただその中には、普通の野菜に比べて、貧弱に見えるものも多かった。