ピョートル宮殿(その5)…1980年夏2012/03/02 21:43

トルストイ著、中村白葉訳
『トルストイ全集3 初期作品集下』
河出書房新社、1973年

「ピョートル一世」
    今バスで話しているかと思うと、たちまち金切り声に変わるのだった。が、帝が笑いだす時には、おかしくはなくて、恐ろしかった。アレクセイは皇帝を理解して、永久に記憶にきざんだ。

 

 ロシアという国の特質なのか、皇帝や指導者は絶大な権力を持ち、暴君となる者も少なくない。そうした暴君は他方で美しい建造物をつくったり、きれいな都市をつくる。レニングラードがここまで美しく、芸術的な都市となったのはロシア皇帝の権力による ものだろうか。日本は強力な政治指導者を抱くことを忌避する傾向が強く、その分美しい都市づくりは不得手のようだ。ヨーロッパの街並みに比べると、日本のそれは整然さに欠ける。
   いずれにしてもこのピョートル宮殿は 豪華絢爛で、見る者の心を魅了する。現在はペテルゴフと呼ばれるらしい。レニングラードがサンクトペテルブルクというドイツ語(ブルク)を使用した名前になってしまった。せめて一時使われたペトログラードというロシア語(グラード)を用いた方が自然な感じもするが、よけいなお世話というものだろうか。雨と噴水が奏でる宮殿の寒々とした雰囲気も趣がある。

エカテリーナ宮殿(その1)…1980年夏2012/03/06 21:37

井上靖著
『おろしや国酔夢譚』
1974年、文春文庫

 伊勢亀山領白子村の百姓彦兵衛の持船神昌丸が、紀伊家の廻米五百石、ならびに江戸への商店へ積み送る木綿、薬種、紙、饌具などを載せて、伊勢の白子の浦を出帆したのは、天明二年(西紀一七八二年)十二月十三日のことである。



 レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を拠点に滞在していた時、郊外のプーシキン市に出かけた。ここにはツァールスコエ・セローという帝政ロシア時代の皇帝たちの別荘地がある。ここの中心はエカテリーナ宮殿。緑豊かな公園もある。帝政ロシアの皇帝たちの栄華をうかがい知ることができる。


 ここもピョートル宮殿と同じで、夏を中心に皇帝一族が過ごした土地であろうか。サンクトペテルブルクの近郊という点ではピョートル宮殿と同じである。電車や自動車もない時代は、別荘地への距離はせいぜい数十キロが限度だっただろうか。

エカテリーナ宮殿(その2)…1980年夏2012/03/09 20:19

井上靖著
『おろしや国酔夢譚』
1974年、文春文庫

 五月八日の朝、光太夫は馬車でツァールスコエ・セロに向かった。ペテルブルグより二十二露里の地点にあるが、八間余りの平坦な道がまっすぐに平原の中を走っている。



 この宮殿の名前は、ピョートル大帝の妻でもあり、その皇位を継承したエカテリーナ1世から来ている。エカ テリーナが1世が建築させたもの。本格的に豪華な宮殿となったのがエカテリーナ2世の時代。啓蒙専制君主としても有名なエカテリーナ2世の時代はポーランド分割などによって領土を拡大させ、ロシアの影響力がますます大きくなった。
 ただでさえ大きなロシアの領土が拡大していったのだから、エカテリーナ2世がますます強力な君主になったことは言うまでもない。周囲の庭園や池も広大で、美しい。ロシアの自然と西欧の技術を駆使して建築した宮殿とが見事にマッチしている。


エカテリーナ宮殿(その3)…1980年夏2012/03/13 21:05

井上靖著
『おろしや国酔夢譚』
1974年、文春文庫

「可哀そうなこと」
  そういう声が女帝の口から洩れた。
「可哀そうなこと、----ベドニャシカ」
  女帝の口からは再び同じ声が洩れた。光太夫にとっては一切のことが夢心地の中に行われていた。


 
 エカテリーナ2世はロシアの女帝であるが、もともとドイツ人。エカテリーナは勉強好き、勤勉な人物で、皇帝としての執務に専念した。ロシアの近代化にも力を傾注するが、農奴に対する圧制を続け、プガチョフの乱が起こるなど、不安定な時期もあった。エカテリーナ2世は文化、芸術を愛し、フランス文化に恋焦がれ、ヴォルテールと交流したことは有名である。
   ロシアのフランスびいきは相当なもので、ロシア文学を読んでいると、貴族たちが突然フランス語を使ったりして、不思議な印象を受ける。ロシアはウラル以東がアジアなので、モスクワ、サンクトペテルブルクなどから来た人は殊更にヨーロッパ出身であることを強調する。ロシアはビザンチン帝国の継承者とも称されるが、他方で西欧の文化や技術を貪欲に吸収した面もある。その点は日本と共通点があるともいえる。


エカテリーナ宮殿(その4)…1980年夏2012/03/17 01:04

井上靖著
『おろしや国酔夢譚』
1974年、文春文庫

「十二人でございます」
光太夫が答えると、
「オオ、ジャルコ」
と低く女帝は口にして言った。



 ピョートル宮殿にも共通することだが、この宮殿も贅沢の限り尽くしたつくりとなっており、ふんだんに金が使われている。レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)自身が金色のアクセントがついた眩い街であるが、このツァールスコエ・セローもそのミニコピーのように貴族趣味に満ちたものとなっている。
 最初モスクワに入って、後からレニングラードにやってきた時はモスクワの方がロシア的でいい街だと思った。しかし、レニングラードに長く滞在するにつれ、こっちの街の方が好きになってきた。レニングラード市民が口々に言うように、モスクワは緑が多いが、単なる田舎街という印象さえ持つようになってしまった。

エカテリーナ宮殿(その5)…1980年夏2012/03/20 14:27

井上靖著
『おろしや国酔夢譚』
1974年、文春文庫

  女帝はどう考えても六十二歳の年齢には見えなかった。肩には緋色のガウンを纏い、頭には小さな宝石が無数にちりばめられている王冠を載せていた。



 この地を訪問した時は、偉大なロシアの詩人の名にちなんだプーシキン市という名前だったが、今はサンクトペテルブルク市の一部となっているようだ。まだモスクワ大学やレニングラード大学が外国人に留学しにくい時代、プーシキン大学なら広く留学を受け付けるという時代もあった。
   ちなみに、ロシアでは帝政時代、ソ連時代、新生ロシア時代とわたって、国民は詩を愛し、詩人の地位も極めて高い。気に入った詩を暗誦している庶民も多い。酒の席で、ロシア人は憶えている詩を披瀝して、盛り上がることもある。これに比べると、日本では詩人の地位が低いなと思うことがある。日本の酒の席で漢詩や日本の詩を暗誦したらどん引きになるだろうか。

こぐまのミーシャ…1980年夏2012/03/23 01:25

今野 敏著
『凍土の密約』
文春文庫、2012年

 倉島はうなずいた。隠し事をしたり、誤魔化したりしている様子はない。彼女は、本当にペルメーノフのことをただのジャーナリストだと思っていたようだ。
 ここで彼がスパイだったなどと告げる必要はない。
「彼はロシアの話などはしていましたか?」
「ええ、故郷の話はしていましたね。ミーシャは、モスクワ生まれのモスクワ育ちだと言ってました」
 ミーシャというのは、ミハイルの愛称だ。



 ソビエト・ロシアを訪問したのはモスクワオリンピックが終わった直後。日本は不参加となったので、オリンピック中継は全く見なかったが、マスコットとなった「こぐまのミーシャ」は人気があった。オリンピックの少し前に「こぐまのミーシャ」というアニメ番組が放送されていたことを記憶している。そのキーホルダーを買った。残念ながら、鍵をぶらさげる金具はとれて、どっかへ行ってしまったが、本体のクマのほうは健在である。
   当時のソ連ではチェブラーシカの映画も作製されていたが、諸外国にはほとんど知られていなかった。外貨を稼ぐためでもあるせいか、ソ連での外人向けの品は値段が高かった。自由な為替市場にも参加していなかったので、当時は1ルーブルが400円くらいと強気の相場が設けられていた。しかし、実際にはドルを闇で買う一般人も街中に溢れており、ソ連の通貨の実力は弱かった。このミーシャも色あせたが、腰につけている紙製の五輪のベルトはしっかり残っている。

サンスーシ宮殿(その1)…2001年夏2012/03/27 02:10

カント著、樫山欽四郎/坂田徳男/土岐邦夫訳
『世界の大思想11 カント(下) 実践理性批判/判断力批判/永遠の平和のために』
河出書房、1965年

「判断力批判」
    大王フリートリヒがその一つの詩のなかで、「呟かず、悔いをせずに生を辞そう、われらの諸々の善行に充たされた世界を後に。一日の行程を終えた太陽は、なお柔らかき光を空一面に拡げる。空へ投ぐるそのさいごの光は世の幸わせを思ういまわの吐息である」と述べておられる場合に、大王はその生涯の終わりにあたってもなお、構想力が(空晴れた夕暮によってその諸々の楽しさが心のうちによび起こされる、暮し送られた楽しい夏の一日を回想するときに)かの表象にともなわせるところの、そしてどのような言葉も見出されない夥しい感覚と副次的表象を喚起するところの、〔象徴的〕属性によって、大王の抱いておられる世界公民的意向の理性理念を生気づけておられるのである。



 ベルリンから近い都市ポツダム。ポツダムといえばポツダム宣言という言葉がすぐに思い出される。日本の敗戦と関わっているだけに、感慨深くなる。ここにサンスーシ宮殿がある。ポツダムは東ドイツの都市だったので、旧共産圏によく見られた路面電車が走っていた。ソ連を訪問した際も、こうしたトラムはよく見かけた。
  旧東ドイツの面影を残しつつも、美しい街並みも保っているという面白い都市である。イタリアのローマからベルリン入りし、再開発の真っ最中であるベルリンの喧騒から逃れて、小都市ポツダムに来るとほっとした気分になる。大都市であるベルリンも緑が多いが、このポツダムも水や緑に恵まれている。駅から宮殿に向かって歩いていくと、こうした自然に接することができる。

サンスーシ宮殿(その2)…2001年夏2012/03/31 00:12

カント著、樫山欽四郎/坂田徳男/土岐邦夫訳
『世界の大思想11 カント(下) 実践理性批判/判断力批判/永遠の平和のために』
河出書房、1965年

「永遠の平和のために」
  君主が哲学すること、あるいは哲学者が君主となることは期待されない。また望ましいことでもない。権力の所持は理性の自由な判断を不可避的に害するからである。



 閑静なポツダムの街に立つ豪華な宮殿。このサンスーシ宮殿はプロイセン王国時代、18世紀の中ごろにフリードリヒ大王の命令により建設されたものである。ロココ建築の宮殿であり、荘厳なつくりが目をみはる。フリードリヒ大王は単なる政治指導者ではなく、文化、芸術、哲学に造詣が深い啓蒙専制君主だった。フリードリヒ大王の卓越した指導力はプロイセンを強国に育て上げた。
   もともとドイツは小国が分立し、まとまりのない地域だった。ドイツはカトリックとプロテスタントが入り混じった地域でもあり、宗教的にも入り乱れていた。サンスーシ宮殿は、この知性に溢れた大王が滞在するにふさわしい宮殿となっている。世界史の授業でも出てくる名前なので、親しみをもって接することができる。