ロンドンでフィッシュ・アンド・チップス…2008年夏2013/01/02 16:48

セドリック・ディケンズ著、石田敏行訳、石田洋子訳
『ディケンズとディナーを―ディケンズの小説中の食べもの散歩』
モーリス・カンパニー、1987年

   1837年のある日、初めて世界中に響き渡った、オリバー・トゥイストのこの不滅の言葉ほど、この本のしめくくりにふさわしい言葉はありません!

「『お願いです、ぼく、もっと欲しいんです』」



   こちらはロンドンのパブ。よく入ったアールズコートのパブ。注文したのはフィッシュ・アンド・チップス。このように、さらにグリーンピースがつくことも多い。こちらもなかなかいける。味は悪くない。パブは席によって値段が違ってくる。風を浴びながら味わうフィッシュ・アンド・チップスは最高だ。屋外のテーブル席に陣取ったので値段はちょっぴり高くなる。ゆっくりと過ごすロンドンの夜は最高だ。真夏でも快適な気候だし。

エジンバラでガモンハンバーガー…2008年夏2013/01/04 07:46

セドリック・ディケンズ著、石田敏行訳、石田洋子訳
『ディケンズとディナーを―ディケンズの小説中の食べもの散歩』
モーリス・カンパニー、1987年

   スコットランド出身の善良なる友人は、月の名に"r"がつくまでハギスを食べるのはよした方が良いと教えてくれました。私は独自にハギスの唯一の食べ方を発見しました。スープ皿に四分のスコッチウィスキーをみたし、そのウィスキーだけを飲んだらハギスを捨ててしまうことです。信じられないですって。ええ、そりゃ無論私はハギスなんかより、スコッチの方が好きですから。



   エジンバラのパブではガモンハンバーガーを食べた。エジンバラで過ごす最後の夜だった。フィッシュ・アンド・チップスにしようか迷ったが。イングランドではフィッシュ・アンド・チップスをけっ こう食べていたので、こちらにした。まあまあいける。考えてみたら、ガモンサンドを直前に食べていたので、ほかのにすれば良かったかな。

エジンバラ大学でガモンサンド(その1)…2008年夏2013/01/08 20:07

セドリック・ディケンズ著、石田敏行訳、石田洋子訳
『ディケンズとディナーを―ディケンズの小説中の食べもの散歩』
モーリス・カンパニー、1987年

   債務者用の監獄でのお茶の場面の描写は2回あります。ドリット氏が年とった恩給生活者に「ティーケーキと新鮮なバターと卵とコールドハムと小エビ」を出した場面です。もう一つはジョン・チバリーがアーサー・クレナムのために「バターのキャベツ包み、薄切りゆでハムのキャベツ包み、クレソンとハーブサラダの盛り合わせ」(「リトル・ドリット」)を出した場面です。



   スコットランドではやたらガモンという名前のついた料理がでてくる。がんもどき?鴨?そんなはずはない。どうやら塩豚のハムことらしい。エジンバラ大学のキャンパス。ここは理工系の建物が多いところ。
   大学のパーラーでガモンサンドなるものを食べる。コールスローサラダがたっぷり入っていた。英国での料理はアメリカほどビッグじゃない。この写真はサンドイッチの中味を開けずに、外から見たもの。

エジンバラ大学でガモンサンド(その2)…2008年夏2013/01/11 16:42

セドリック・ディケンズ著、石田敏行訳、石田洋子訳
『ディケンズとディナーを―ディケンズの小説中の食べもの散歩』
モーリス・カンパニー、1987年

   少々無分別ながら、プロテスタントの布教活動に献身しているヴァーデン夫人は、熱中のあまりこれからの生活に不安を感じ、寝室で質素な食事をとりました。しかし、食事の内容はおだやかな食欲を満たすためには十分に実質的で、バランスのとれたものでした。
「濃くて強いお茶をポットに1杯、バタートースト2枚、並の大きさのビーフとスライスハム、そして8ッ折版2巻本の『プロテスタントの心得』」(「バーナビー・ラッジ」)


 
   エジンバラ大学のキャンパスにあるパーラーに入った。前回は中身を見てない写真を紹介した。今回はその中身の写っている写真。パンを開くとこうなっていた。長い間バスに乗って、遠回りでエジンバラ市内を巡ってしまったので、ゆっくり腰掛けて食べるサンドがひときわおいしく感じられる。
   夏休みのせいだろうか、学生はあまり見かけない。ここは理工系の建物が中心なので、大学生協で売られている書物などもその関連のものが多い。ガモンサンドはまあまあいけた。海外に行くとどうしてもコーラーを多く飲んでしまう。

ロンドンでソーセージ…2008年夏2013/01/15 22:26

セドリック・ディケンズ著、石田敏行訳、石田洋子訳
『ディケンズとディナーを―ディケンズの小説中の食べもの散歩』
モーリス・カンパニー、1987年

   共有緑地の隣りのトゥールソン氏は太っていて陽気で、いつも私を歓迎してくれました。彼からは、肉を食べごろになるまで吊るしておくことや、大きな塊でのきり方や料理法など、肉に関することを教わりましたが、残念ながらそのほとんどを忘れてしまいました。彼はソーセージ製造機も持っていました。しかし、その持ち主をもソーセージにしてしまった、サム・ウェラーの「永久特許のソーセージ蒸気エンジン」(「ビックウィックイ遺文集」)ほどすぐれたものではありませんでした。



   ロンドンのアールズコートにあるパブに何回も通った。この日はソーセージを注文した。なかなかボリュームがある。マッシュポテトのつけ合わせもあるから、これでちょっとした夕食になる。けっこうお腹が膨れる。注文した黒ビールにはよく合う。
  パブの中でも一番ゆったりした場所に座って、緑に囲まれたテーブルで食べるソーセージはおいしかった。パブの敷地には木が植えてあって、夕涼みするには最高の環境だった。ロンドンを訪問した後はエジンバラにも行く予定なので、あわただしい日程だったことは事実だが。

シアトルからの帰国便でフルーツ…1999年秋~冬2013/01/19 00:29

亀井俊介、 川本 皓嗣編
『アメリカ名詩選』
1993年、岩波文庫

<シオドア・レトキー/挿し穂>
夢うつつの枝毛が砂糖のようなローム土に首を垂れ、
茎のもつれた柔毛が乾いていく。
それでも華奢な挿し枝は、なだめすかすように水を吸い上げ、
小さな空洞たちがふくらみ出す。



 シアトルに出張をして、帰国することになった。本来はエコノミークラスだが、ビジネスクラスにアップグレードしてもらえた。正規の航空券だったし、空いていたからだろう。お陰でゆったりとしたフライトを楽しめた。フルーツのセットが出た。フルーツは大好きなので、とても嬉しかった。ワシントンDCやニューヨークに比べると、シアトルは日本から近い。アメリカ西海岸に入ってから、東海岸に着くにはそれなりに時間がかかるので、日本とシアトルは近く感じる。
 昔は機内食は残さず食べることにしていた。海外旅行が高かった時期は元をとらなきゃと考えていた。はじめて海外旅行に行った時には、アエロフロートの機内食も全部たいらげた。最近は機内食は無理をしない範囲で食べることにしている。このようなフルーツや軽食は胃が疲れていても受け付けるので、ありがたい。

高雄でパイコー麺…2007年夏2013/01/22 20:34

司馬遼太郎著
『街道をゆく40<新装版>台湾紀行』
2009年、朝日文庫

   高雄のホテルで、柯旗化氏の『台湾監獄島』を読んだ。柯旗化氏は、英語学者であり、高雄で出版社を経営している。
   5年前(1988)、蔣経国が死に、憲法の規定によって李登輝さんが副総統から総統に昇格した。その前後から、台湾の言論は自由になった。



   台湾の高雄でパイコー麺(パーコー麺とも言う)を食べた。このパイコー麺には親しみがある。ずいぶん前から、日本国内でもよく食べていた。ただのラーメンだと食事としては寂しいが、パイコー麺なら満足感も大きい。台湾は日本から近いので時差ボケも移動疲れも少なく、体調を崩さす旅行できるのが利点だ。
   この年は秋から冬にかけてアメリカに研修に行くことになっていたので、夏の旅行は近場の台湾にすることにした。台北には行ったことがあるので、高雄中心の旅行にした。台北に比べると高雄はちょっとスケールが小さいが、楽しめる街だ。この高雄のパイコー麺はとてもおいしかった。

高雄からのビジネスクラスで機内食…2007年夏2013/01/25 20:38

司馬遼太郎著
『街道をゆく40<新装版>台湾紀行』
2009年、朝日文庫

   『台湾獄門島』の著者は、当時、台北市の師範学校に在学していて、故郷の高雄のことを心配していた。
   台北に端を発した暴動は、一時期、政府側を圧迫した。やがて大陸から軍隊が送られてきて、政府側は鎮圧に出た。


   高雄を中心に台湾を回った。帰国のために、空港に着いて、出発ゲートでゆっくりしていた。突然名前を呼ばれたのでびっくりした。「あなたの席はとれていません」と言われ、衝撃を受けた。でも、その後に、「代わりにビジネスクラスの席を用意しました」と言われて、災い転じて福となったことが理解できた。
   日本アジア航空のビジネスクラス席に座る。食事も格上げとなり、気分が良かった。たまにエコノミーなのに、ビジネスクラスに格上げしてくれることがある。ノーマルチケットで買っていて、空いている時などはそういうことがある。高雄から成田のビジネスクラスで和食の機内食をおいしく食べた。ゆったりと過ごすことができて、快適だった。食後のフルーツもこれまた美味かった。

モスクワでアイスクリーム…1980年夏2013/01/29 21:01

鈴木俊子著
『誰も書かなかったソ連』
1979年、文春文庫

   モスクワにいる外国人は、どうしても食料品のドルショップに通わねばならない。国営商店は品うすだし、農民が住宅付属地(庭)でつくった野菜、くだもの、ジャガイモ、花などを自由価格で売るコルホーズ市場(自由市場)のものは値段が高すぎるからだ。だがいちばん需要の多いドルの食料品店が、モスクワ市にただの一軒しかない。私たちのアパートから車で二、三十分のところにあり、食料の買い出しはひと苦労だった。



   ソ連時代のモスクワ。空気が乾燥しているので、アイスクリームがうまい。冬でもアイスクリームは人気がある。夏ならなおさらだ。北国のロシアだけに、そんなに暑い日は少ないが、アイスクリームが食べたくなる。街の中は行列だらけだが、アイスクリームはそんなに並ばずに買うこともできる。
   アイスクリームはこうした屋台で買うことができる。見ると、女の人たちが集まっている。ロシア滞在中に何度買って、食べたことだろうか。レニングラードでもけっこう食べた。ソ連自慢のアイスクリームだが、実はアメリカの技術が入ってきて、広がったという説も聞いた。いずれにしても、アイスクリームは手軽に買えて、食べられるから楽しみの一つだった。