ヘルシンキ--タリン間のフェリー航路(その34)…2013年夏2014/10/02 20:59

ケント・ハールステット著、中村みお訳
『死の海からの生還--エストニア号沈没、そして物語はつくられた--』
岩波書店、1996年

 つまり、福祉国家が機能していたのだ。そこで育まれる安心感は、どういうわけか、成長して中学、高校へ進学するころになっても揺るがない。社会に出ても、安心感のイメージが身についていることになる。このイメージが、人間の生活条件改善のために、僕を政治的活動に駆り立てた理由の一つだと思う。



   やはりみんな急ぎ足で下船する。タクシー乗り場には車が沢山とまっていた。問題なくタクシーに乗って、中央駅に向かう。このまま空港に近接したホテルまで乗ってしまうと高くつくので、中央駅でリムジンバスに乗ることにする。中央駅はヘルシンキで一番賑やかな場所だ。
   夜の7時半にタリンを出て、9時半にヘルシンキ着。下船するのにちょっと時間がかかり、それからタクシーに乗ってヘルシンキ駅に着いたのはちょうど10時だった。ヘルシンキには地下鉄もあるが、郊外の住宅とつながっており、観光で使う機会はあまりない。
   タリンへの旅は日帰りでけっこうあわただしかったが、時間は十分にあった。タリンは半日もあれば主な地域はだいたいまわれる。朝早く出かけ、夜遅くまでの日程だったので、これで十分満喫できた。

横浜--ナホトカ間の航路(その1)・・・・1980年夏2014/10/04 06:02

ミシェル・タンスキー著、宇島正樹訳
『ロシア秘密警察―拷問・暗殺・粛清の歴史』
 1979年、サンケイ出版

 ジェルジンスキーの母はレドショウスキというポーランド貴族の家の出である。その家から出た枢機卿は文化闘争におけるビスマルクの強敵となったし、彼の甥はイエズス会総会長であった。



   はじめての海外への旅。横浜港からソ連のナホトカに向かう。ジェルジンスキー号というソ連の客船。ジェルジンスキーはソ連の秘密警察の長官の名前。この船は青函連絡船くらいの大きさ。おおむね5000tくらいだろうか。それほど大きな客船とはいえない。
   横浜港を出発する。『蛍の光』が流れ、紙テープが飛ぶ。見送る人もけっこういた。横浜からナホトカまで2日半の行程。今から考えると悠長な日程だ。この時代からだろうか。学生が海外旅行に行くのがそう珍しいことではなくなった。それでも、今と比べると海外へ行く費用はかなり高い。

横浜--ナホトカ間の航路(その2)・・・・1980年夏2014/10/07 20:57

ミシェル・タンスキー著、宇島正樹訳
『ロシア秘密警察―拷問・暗殺・粛清の歴史』
 1979年、サンケイ出版

  シベリア流刑地でのジェルジンスキーをトロツキーは次のように描いている。
「ある日、広い川のほとりで、焚火のほのかな光を受けながら、ジェルジンスキーがポーランド語の詩を朗読しているのを私は見た。何も分からなかったが、この人物の血管に脈打つ内在力に打たれた…… 彼の生涯そのものがある時期の恐ろしい詩であった……」



  これが横浜からナホトカまでのジェルジンスキー号の券である。けっこうきれいに作られている。船室は下から2つめのグレード。船はクラスが低くなるにつれて、船底に近くなる。当然相部屋だった。4人部屋だったが、ここは3人だけだったので少し余裕があった。1人は京都から来たという学校の先生だった。
   船は横浜港を出て、太平洋側を航行し、津軽海峡を経て、極東ロシアへと向かう。はじめての海外旅行だったので、食事なども残さず食べた。何とかもとをとらなければと思っていた。船の中では音楽ショーを見たり、チェスをやったり、外国人のお客さんと話したりして、楽しく過ごせた。

横浜--ナホトカ間の航路(その3)・・・・1980年夏2014/10/09 20:20

五木 寛之著
『ナホトカ青春航路 (Essay books―流されゆく日々)』
PHP研究所、1984年

  たとえば、ぼくみたいに昼と夜のひっくり返った生活をしてますと、海外旅行のとき、すごく便利ですね。



  台風が近づいていたこともあり、船は激しく揺れた。ものすごい揺れだった。船が沈没するのではないかと思われるくらいの揺れだった。食べたものを吐き、つらい時間が続いた。無理して食事を食べたのも響いた。とにかく長丁場の航海だけに、身体を休めるしかなかった。甲板で横になっていたら、イギリス人のおばあさんが話しかけてきた。ソ連で行われる世界連邦関係の会議に出席するとのこと。
   ジェルジンスキー号は、北海道と青森県の間にある津軽海峡を通過する。漁船、灯台も見える。途中霧が発生して、視界が悪くなることもあった。船の航行には問題なかった。船酔いのせいで体調は良くないが、船は順調に航海を続け、ナホトカへと向かう。



横浜--ナホトカ間の航路(その4)・・・・1980年夏2014/10/11 05:44

五木 寛之著
『ナホトカ青春航路 (Essay books―流されゆく日々)』
PHP研究所、1984年

  いろいろ書いてますから、本を読んでいらっしゃる方は、もうご存知だと思いますけれども、横浜の港から<バイカル号>っていうソ連船舶公団の船に乗って、何日もかかって北上して、そしてナホトカ、イルクーツク経由でモスクワへ出るわけですね。



  ようやくロシアの地が見えてきた。ロシアといっても極東のシベリアのはずれの街だが。はじめて見る異境の地は幻想的に見えた。なにしろ海外の地を踏むのははじめての体験だ。遠くから見るとどんな都市でもきれいに見えるものだが。
   とてもこぎれいな街が見えてきた。みんな甲板に出て、ナホトカの街を見やっている。飛行機ではなく、船での旅となったことが大きな意味を持った。はじめて行く海外の地が飛行機によるものだったら、味気なかったかもしれない。2日半もかけて、船酔いに苦しみながらたどり着くところなのだ。

横浜--ナホトカ間の航路(その5)・・・・1980年夏2014/10/14 20:23

五木 寛之著
『ナホトカ青春航路 (Essay books―流されゆく日々)』
PHP研究所、1984年

  その1950年代から60年代にかけての、ぼくらの<第一次海外青春旅行>というのは、とてもお金がなくて、貧乏で、苦しい旅行だったんですけれども、何かものすごい夢があったような気がしますね。



  船は港へと近づく。もう少し街がはっきりと見えてくる。工業地域のようなところがはっきり見えてきた。飛行機と違って、船は速度が遅いから、接岸にも時間がかかる。なかなかじれったいものがあるが。青函連絡船は何度か乗ったが、だいたい4時間くらいの行程だ。津軽海峡で揺れることが多かったが、吐くような船酔いになったことはない。
   同じくらいの大きさの船で横浜とナホトカを航行することはけっこうきつい。台風が近づいた時の船の揺れはすさまじかった。ジェルジンスキー号が太平洋を航行している時、その東側を台風が併走していたのだ。さすがに着く頃には船酔いも消えていた。


横浜--ナホトカ間の航路(その6)・・・・1980年夏2014/10/16 20:11

五木 寛之著
『ナホトカ青春航路 (Essay books―流されゆく日々)』
PHP研究所、1984年

  今もジャルパックだ、やれ何だと、ずいぶんたくさんの人が海外に出て行きますけれども、ぼくは戦後の若い人の海外旅行の中に、一つの波があって、そして、その最初の波が50年代、小田実さんの『何でも見てやろう』とか、そういうものに刺激を受けて出て行く、そういう時代があったと思う。



  さて、ナホトカの港が見えてきた。「ここは何もないぞ。材木置き場しかないぞ」とロシアに行ったことのある人から話を聞かされていた。ナホトカは特に見る予定もないし、そもそも滞在することにはなっていない。
   ここからまた寝台列車に乗り、さらにアエロフロートの飛行機に乗ることになっている。モスクワオリンピックのマスコットのミーシャの絵も見える。もうオリンピックは終わってしまったし、日本は参加することもなかったが。その意味でちょっと寂しい感じがする。船はゆっくりゆっくりと港へ近づいていく。

横浜--ナホトカ間の航路(その7)・・・・1980年夏2014/10/18 06:02

畑山博著
『3番線ホームの少女』
潮出版社、1983年

<ナホトカ特急殺人事件>
  二人は一度脱いだオーバーを羽おって通路に出、ドアを閉めた。
 五分ほどたった。通路にいるドイツ人のハイティーンの男女があふれていた。



  いよいよナホトカに到着する。その直前の写真である。台風が近づいて船は大きく揺れたが、なんとか無事にナホトカに着いた。2日半の船旅でさすがに体力を消耗している。何度も吐いてしまったし、かなり身体にはダメージがきている。横浜には1泊しているから、実際には4日も費やしていることになる。
   ナホトカ港。特にぱっとしたところのないところだが、はじめの海外の地なので気分も昂揚してくる。海外への入国審査なども初めての体験だ。当然、パスポートを持ったのも初めてだ。乗客はみんな船が接岸するのを待っている。

横浜--ナホトカ間の航路(その8)・・・・1980年夏2014/10/21 21:40

畑山博著
『3番線ホームの少女』
潮出版社、1983年

<ナホトカ特急殺人事件>
 朝日が列車の右後方から射していて、前方の地平線が薄く紅色に輝いている。と、その紅色の地平線にぽつんぽつんと家の屋根が見えはじめ、列車は小さな村に入って行く。


  1か月ロシアとリトアニアを旅した後。帰りの船はバイカル号を使った。こちらの船の名はけっこう知られていた。4年前の1976年の夏、このバイカル号で凄惨な事件が起こったからだ。行きとは逆で、ナホトカから横浜に向かう。行きのことはけっこう覚えているが、帰りとなるとあまり記憶がない。どの旅行でもそうだが、帰りの便はそんなに感慨深いものではない。
   行きはいろいろと遊んだけど、帰りは何をしたのかさっぱり記憶がない。ただ、帰りも船酔いにやられてしまい、つらい目にあったことは確かだ。行きとまったく同じ結果になってしまった。当時は、乗り物酔いの薬も一般的ではなかった。インターネットもなかったし、生の旅行の情報もそんなになかった。

ボルチモアの船上視察…1997年秋2014/10/23 20:16

ディケンズ著、伊藤弘之・下笠徳治次・隈元貞広訳
 『アメリカ紀行(上)』
2005年、岩波文庫

   メリーランド州のこの首府はさまざまな種類の多くの交通手段--特に水路による運輸--を持った、活気のある、ざわめきに満ちた町である。実際、この都市がもっとも力を入れているその区域は、決して清潔な所とは言えない。



   アメリカの中心市街地の活性化の調査の一環として、メリーランド州のボルチモアにやってきた。他には、ワシントンDC、ニューヨーク、ニュージャージーのレッドバンクなどを訪問した。日本でも商店街をはじめ、中心市街地が衰退していて、いかに都市を再生させることが重要かということが認識されていた時代だった。
   ボルチモアはインナーハーバーを中心に見事な再生が行われた街だが、船から街を見るのが一番ということになり、船上視察となった。ボルチモアはワシントンからちょっと離れたところにある。十分日帰りできるくらいの距離である。船から見たボルチモアはなかなかきれいだった。