三国志の舞台・成都武侯祠を歩く…2015年春(その10)2017/10/01 06:51

駒田信二著 
『三国志故事物語』
河出書房新社、1993年

亮、病篤し。大星あり、赤くして芒あり。


   これは唐碑。唐碑は、唐代の宰相斐度の文章、書家柳公権の書、名匠魯健の彫刻が揃ったものだとの解説がある。唐代のもので、大変優れた作品の組合せで、評価の高いものらしい。


三国志の舞台・成都武侯祠を歩く…2015年春(その11)2017/10/02 07:54

駒田信二著 
『三国志故事物語』
河出書房新社、1993年

   犬羊の質を以て虎豹の文を服し、衆星の明無くして日月の光を仮る。


   これは唐碑の一部。唐となると、三国志の時代からかなり時代が経っているが、諸葛孔明を称えたものとからしい。つまり直接は三国志とは関係のあるものではない。世界史を勉強した時も中国の歴史は意外とややこしくて、今でも春秋とか三国志の時代がごっちゃになってしまうことがある。時代は全然違うのだが。


三国志の舞台・成都武侯祠を歩く…2015年春(その12)2017/10/03 07:52

駒田信二著 
『三国志故事物語』
河出書房新社、1993年

時に歳荒れ民倹し。


   これも唐碑の一部。何が書いてあるのかはわからない。こちらの方は詳しい説明文もない。写真には映らなかったが、上の方に何かの彫刻があったと思う。いずれにしても、唐碑は文化遺産としてとても貴重なものらしい。


三国志の舞台・成都武侯祠を歩く…2015年春(その13)2017/10/04 08:43

駒田信二著 
『三国志故事物語』
河出書房新社、1993年

文人相軽んずるは、古よりして然り。


   鳥がいた。なんという鳥かはさっぱり分からない。成都はかなり内陸部にあるので、日本にはいない鳥かもしれない。それとも意外な平凡な鳥だったりして。鳥の研究などしたことないから見当がつかない。


三国志の舞台・成都武侯祠を歩く…2015年春(その14)2017/10/05 08:44

駒田信二著 
『三国志故事物語』
河出書房新社、1993年

   人生れて十年を幼と曰う、学ぶ。二十を弱と曰う、冠す。三十を壮と曰う、室あり。


   ここの3名の像と解説文の写真がある。彼らは劉備の側近らしい。右から陳震、邓芝、董和。陳震は呉との同盟関係の維持で大きな役割を果たしたとある。邓芝、董和も劉備にとって重要な役割を果たした高官だったようだ


三国志の舞台・成都武侯祠を歩く…2015年春(その15)2017/10/06 12:31

駒田信二著 
『三国志故事物語』
河出書房新社、1993年

  是に於て曹が師震慴して、晨夜逋遁し、敖曹に屯拠して、河を沮てて固と為し、塘蜋の斧を以て隆車の隧を禦がんと欲せん。


   これは龍をモチーフとした石の彫刻か。日本には麒麟麦酒という会社もあるが、龍と麒麟と同一視してしまうが、別のものらしい。タツノオトシゴと龍の関係はどうなのかとどんどんと疑問が広がっていく。、中国の王朝においては龍は皇帝のシンボルとされたようで、かなり高貴な存在と位置づけられていたようだ。


三国志の舞台・成都武侯祠を歩く…2015年春(その16)2017/10/07 08:52

吉川永青著
『戯史三國志 我が土は何を育む』
講談社、2012年

   乱が鎮圧された後、四散した黄巾残党は再び漢の各地に終結していた。


   劉備の塑像がある。三国志の中心人物の一人で、この成都とも縁がある人物である。三国志では、曹操、孫堅という重要人物も出てくる。やったことはないが、三国志の関係はゲームソフトも多く、かなり人気があるようだ。


三国志の舞台・成都武侯祠を歩く…2015年春(その17)2017/10/08 09:06

吉川永青著
『戯史三國志 我が土は何を育む』
講談社、2012年

   女郎宿を出て目抜き通りに戻る頃には、劉備は元の柔和な顔に戻っていた。


   劉備の塑像の写真をまた撮る。今度は小さくなってしたったが、全体はしっかりわかる構図となった。簡単に言えば、三国志は、魏、呉、蜀の覇権争いをテーマとした物語だが、劉備は蜀を統治した人物である。成都の街中にも、「蜀の都 成都」という看板が出ていた。


三国志の舞台・成都武侯祠を歩く…2015年春(その18)2017/10/09 08:56

吉川永青著
『戯史三國志 我が土は何を育む』
講談社、2012年

   劉備は陳宮と談笑しながら目抜通りを歩き始めた。


   劉備について日本語の説明がある。
   ちょっとピンぼけになっているが、説明は以下の通りである。劉備(161~223年)字は玄徳で河北省の出身。漢の末期に決起して、天下を争い、221年に成都で帝位についた。呉との戦争で失敗し、白帝城で病死した。諡号は昭烈皇帝。この塑像は清の康熙11(1672)年に建てられた。
   劉備の出身の河北省は北京に近く、成都からはかなり離れている。


三国志の舞台・成都武侯祠を歩く…2015年春(その19)2017/10/10 06:53

吉川永青著
『戯史三國志 我が土は何を育む』
講談社、2012年

孫権も兄に似て実にしたたかな男であっ
た。


   劉備は筵売りの貧しい家庭に生まれたが、出世街道をばく進する。関羽、張飛とか優秀な側近にも恵まれた。この塑像は最初は女性かと思った。そうではなくて、これは劉備の孫にあたる劉諶の塑像。劉諶は魏に対して徹底抗戦を唱えた人物。劉諶の主張は父である劉禅帝から拒否されて、妻子を殺して自害するという壮絶な最期を迎えている。