ナホトカ支線(シベリア鉄道)の寝台に乗る…1980年夏(その14)2022/03/15 10:02

A.ジノビエフ 作・画、川崎浹 訳
『酔いどれロシア : 戯画詩集』
岩波書店、1991年

<弔事>
それでも最後に、こうつけたしてくれ、
ここに彼は永眠する、されば世界は、
酔いどれの一瓶分だけ低くなったと。

<去りゆく者への挽歌>
こうべを低く、
さげなさい、
さげなさい、
さげなさい!

 ここはハバロフスク内のちょっとした公園だろうか。もう帰りの旅程なので、見るとしたら最後のものになるだろうか。こちらがロシア語が話せるとわかって、若者がいっぱい寄ってきた。そのうちの一人の写真撮影をしたものだ。当時の旅程表などなくしてしまったが、この時は次の列車に乗るまでちょっと時間があったのだろう。ハバロフスクをちょっとみる時間もあったのだと思う。しかし、ハバロフスクの中心街に出ることはしなかった。駅周辺あたりを、少し散策した程度だ。こうして旅で出会った人たちも自分と同じように年をとっているだろう。当たり前のことであるが、世界で同じ時間が流れているのも不思議なことだ。しかし、子どもと大人、田舎と都会では時間の流れ方は全く同じとは言えないだろう。


ナホトカ支線(シベリア鉄道)の寝台に乗る…1980年夏(その1)2021/12/22 10:53

A.ジノビエフ 作・画、川崎浹 訳
『酔いどれロシア : 戯画詩集』
岩波書店、1991年

<ロシア人最高の気晴らし>
世にこれほど変わらぬものがあろうとは!
世界を十月革命で百回ゆさぶろうと、
それでもロシア人の気晴らしは、
永遠に断てぬウォッカにあると。

   さて、横浜港からナホトカまで2日半の船旅を終えて、寝台列車に乗る。ナホトカからハバロフスクまでの旅程である。船の中では何回か吐いてしまったために、体調は良くない。寝台列車の上段のベッドで撮影してもらったものだろう。だいたい寝台列車に乗る時は、といっても最近はほとんど機会がないが、できるだけ上段の寝台にする。旧国鉄など3段ベッドの時代もあった。下の方が料金が高かったような気もするが、人が歩いていたり、間違ってカーテンを開けられたりと落ち着かないことが多かった。


横浜--ナホトカ間の航路(その8)・・・・1980年夏2014/10/21 21:40

畑山博著
『3番線ホームの少女』
潮出版社、1983年

<ナホトカ特急殺人事件>
 朝日が列車の右後方から射していて、前方の地平線が薄く紅色に輝いている。と、その紅色の地平線にぽつんぽつんと家の屋根が見えはじめ、列車は小さな村に入って行く。


  1か月ロシアとリトアニアを旅した後。帰りの船はバイカル号を使った。こちらの船の名はけっこう知られていた。4年前の1976年の夏、このバイカル号で凄惨な事件が起こったからだ。行きとは逆で、ナホトカから横浜に向かう。行きのことはけっこう覚えているが、帰りとなるとあまり記憶がない。どの旅行でもそうだが、帰りの便はそんなに感慨深いものではない。
   行きはいろいろと遊んだけど、帰りは何をしたのかさっぱり記憶がない。ただ、帰りも船酔いにやられてしまい、つらい目にあったことは確かだ。行きとまったく同じ結果になってしまった。当時は、乗り物酔いの薬も一般的ではなかった。インターネットもなかったし、生の旅行の情報もそんなになかった。

横浜--ナホトカ間の航路(その1)・・・・1980年夏2014/10/04 06:02

ミシェル・タンスキー著、宇島正樹訳
『ロシア秘密警察―拷問・暗殺・粛清の歴史』
 1979年、サンケイ出版

 ジェルジンスキーの母はレドショウスキというポーランド貴族の家の出である。その家から出た枢機卿は文化闘争におけるビスマルクの強敵となったし、彼の甥はイエズス会総会長であった。



   はじめての海外への旅。横浜港からソ連のナホトカに向かう。ジェルジンスキー号というソ連の客船。ジェルジンスキーはソ連の秘密警察の長官の名前。この船は青函連絡船くらいの大きさ。おおむね5000tくらいだろうか。それほど大きな客船とはいえない。
   横浜港を出発する。『蛍の光』が流れ、紙テープが飛ぶ。見送る人もけっこういた。横浜からナホトカまで2日半の行程。今から考えると悠長な日程だ。この時代からだろうか。学生が海外旅行に行くのがそう珍しいことではなくなった。それでも、今と比べると海外へ行く費用はかなり高い。

レニングラード地下鉄(その2)…1980年夏2014/03/27 20:49

海野弘編
『モダン都市文学Ⅸ 異国都市物語』
平凡社、1991年

中条百合子「モスクワ印象記」
   ロープシンは自殺しなければならなかった。政治的見地からすれば彼自身、不幸な最後を予想しないわけではなかっただろう。然、彼はロシアなしではもう生きて居られなかった。だから還って来た。そして死んだ



   この写真はとある地下鉄のホームから撮影したもの。「扉が閉まります」「次の駅は○○」とアナウンスしてくれるので、間違うこともない。現地で知り合った若いロシア人のアパートに遊びに行った時も地下鉄を利用した。
   そして、その駅名を今でもしっかり覚えている。Polytechnicheskaya(Политехническая)という駅である。 この駅は1975年12月31日に開通している。駅名は大学の名前から来ている。

レニングラード地下鉄(その1)…1980年夏2014/03/25 20:33

海野弘編
『モダン都市文学Ⅸ 異国都市物語』
平凡社、1991年

中条百合子「モスクワ印象記」
   或民俗の持つ風呂によって、彼らの気質の一部を観察できるものとすれば、ロシア風呂は独特だ。日本のように湯桶の中で水を沸かすのでもないし、沸かした湯を寒暖計で計りつつ注ぎ出す科学的方法でもない。室がある。一方の隅に胸位の高さまでの石がある。其は焼石だ。真赤な焼石だ。其焼石に、いきなり水をぶっかける。バッ!水蒸気が立つ。



   これはレニングラード(当時)の地下鉄の車両。やはりモスクワと並ぶ大都市だから、こちらも地下鉄がしっかり普及している。ちょっと野暮ったい感じだが、車両が相当古いのだろうか。
   東京でもかなり長い間一つの車両が使われていたことがあるので、これも第二次世界大戦中にも動いていた車両かもしれない。モスクワに比べると滞在日数がかなり長かったので、地下鉄をうまく使いこなせるようになった。

モスクワ地下鉄(その4)…1980年夏2014/03/22 14:14

ドミトリー・グルホフスキー著、小賀明子訳
『METRO2033(上)』
小学館、2011年

   アルチョムは考え込んだ。クレムリン駅での、あの感動、素晴らしい壁画や彫刻の、広々とした空間を見た時に感じたわき上がるような思いは、ひょっとしたら、自分自身の気持ちではなかったのかもしれない。地下にひそむ化け物が吹き込んだものだったのかも?



   滞在していたホテル”コスモス”は地下鉄の駅のそばにあったので、とても便利だった。ВДНХ--"Выставка Достижений Народного Хозяйства"「国民経済達成博覧会」が近くにあった。
   駅名もまさにその名前。夏の滞在だったので、外を歩くことは快適だったが、真冬などはますます地下鉄のありがたみが大きくなるだろう。モクスワの地下鉄は安くて、便利な交通手段だ。

モスクワ地下鉄(その1)…1980年夏2014/03/15 07:31

海野弘編
『モダン都市文学Ⅸ 異国都市物語』
平凡社、1991年

中条百合子「モスクワ印象記」
   四月になった。窓から見えるクレムリンの赤旗は活々翻り始めた。空は碧い。白く小さい雲が空に浮き、日本女の狭い部屋の衣装棚の鏡に、金色の反射がちらついた。往来を隔てて彼方側の丘にある基督救世主寺院の金の円屋根から春の光が照りかえした。



    はじめて行った外国がソ連(ロシア)なので、海外での地下鉄体験も当地から始まった。最初にモスクワに宿泊したが、さっそく地下鉄に乗ってみる。モスクワ全体の印象は何もかもが大きく、ちょっと汚いという印象。地下鉄もあまりきれいとはいえないが、快適である。
   地下200メートルの世界に入っていく。戦争中は防空壕の役割も果たしていたと聞く。大理石、シャンデリアなどがあり、モスクワの地下鉄の駅は豪華だ。国威発揚の目的もあるのだろうか。大きな5カペイカのコインが切符代わりとなる。切符を買わなくてもいいので、とても便利だ。

サハリン州郷土博物館(その43)…2012年夏2014/03/13 19:57

間宮林蔵術、村上貞助編、洞 富雄・谷沢尚一編注
『東韃地方紀行他』
平凡社、1988年

<北夷分界余話>
 此島を称してカラフトといふ事、其来由をしらず。林蔵この島を巡して至る処、を島夷に質問するといへども、島夷も亦其来由をしるものなく、只蝦夷島の称呼する処なりと答へ、奥地夷に至ては、カラフトの称呼ある事だにしる者なし。



   観光をしている人たち。家族連れでのんびりと博物館を見ている人が多い。地元から来ているのか、それともロシアの別の地から来ているのか。確かに、この地域一帯はのんびりとしている。
   治安も思った以上に良かった。石油で潤っているので、仕事もけっこうあるのだろうか。たまたま太った女性が写ってしまった。ロシアではこういう人は珍しくないが。


サハリン州郷土博物館(その1)…2012年夏2013/12/05 23:27

チェーホフ著、原 卓也訳
『サハリン島』
中央公論社、2009年

   古い建物でも、勤労者の古顔でも、コルサコフの方が北部より多いが、あるいはこれは、南部のこの地帯が北部の両管区よりも、定住した静かな生活に向いていることを意味するのかもしれない。



   ユジノサハリンスクでは一番目立つ建物。観光の主要な見どころでもある。街が碁盤の目に整備されているので、サハリン州郷土史博物館もすぐ見つかる。もともと樺太庁博物館として運営されていた。日本的だが、他の文化的な色彩も入ったユニークな建物だ。入口にいる狛犬も歓迎してくれる。夏には涼しげな噴水もありがたい。