アーリントン墓地(その2)…1997年秋2010/08/03 22:28

ダシェル・ハメット著、砧一郎訳
『探偵コンティネンタル・オプ』
「金の馬蹄」
1975年、早川書房

  ぼくは、死体の上に、毛布をかけなおして、廊下に死んでいる女のそばを、すりぬけ、表ての階段をおり、ほうぼうの電燈を点けて、電話をさがした。階段の足もとの近くに、見つかった。はじめに、警察の刑事部を、その次に、ヴァンス・リチモンドの事務所を呼びだした。

   

 14年ぶりにワシントンDCを訪問した。この写真は、その際にアーリントン墓地を訪れた時のもの。短いワシントンの後は、また短期間でニューヨーク、レッドバンク、ピッツバーグを訪問するという過酷な日程が組まれていた。このアーリントン墓地の訪問は日本大使館がセットしてくれたものだが、ワシントンではモールを見学するのが中心だったが、その前に組まれたものと記憶している。
 この墓地には各界の有名人が埋葬されている。勿論、文化人もいる。ただ、作家はそんなに多くないようだ。その少ない作家の中で、アーリントン墓地に埋葬されている一人に、推理作家のダシール・ハメットがいる。どちらかというとリベラル派、反体制派の作家だが、第一次大戦、第二次大戦にも従軍している。
 そのハメットの話になるが、先日、『ジュリア』という映画がNHKの衛星番組で放映されていた。学生時代に映画館でロードショーを見たのだが、当時はあまり意味が分らず、あまり面白いとはおもわなかった。今のように、インターネットで事前に情報を得ることもなく、突然映画館に入ったのでストーリーがよく理解できなかったし、登場人物の背景もよく分からなかった。しかし、NHKで見た時には、学生時代には感じられなかった面白さが理解できたし、登場人物にダシール・ハメットが出てくることにも気がついた。


レーニン廟…1980年夏2010/08/06 20:19

リュドミラ ウリツカヤ著、沼野 恭子訳
『ソーネチカ』
2002年、新潮クレスト・ブックス

 こうしてパーティは順調に進んでいった。ほろ酔い加減のガヴーリンは、瀕死の白鳥の物真似をし、それからレーニンを演じ、そしてアンコールに応えて、これはもうだれもが知っている十八番、ノミを探す犬の真似をした。その後、言葉あてクイズをすることになって、妖怪と六本足の牛が登場した。 



  ロシア革命の指導者レーニンの遺体が安置されている廟。ここで衛兵の交代式を見る。帝政ロシアはドイツから軍事指導を受けた。軍事に関わるいろいろな様式を受け継いだ。だからソ連兵はナチス式の行進をする。後に、独ソは戦うこととなる。歴史の皮肉ともいえる。


 近くで、父親が小さい女の子を肩車していた。その親子の会話がほのぼのとして、心が癒された。女の子は3歳か4歳くらい。ちょうど30年前のことだか ら、今は33、34歳。ソ連が崩壊して、もう20年近く経つ。肩車されていた日以降、あの子は二つの国でどんな人生を歩んだのだろうか。

フェデラルヒル公園…2007年秋~冬2010/08/10 19:58

ローラ・リップマン著、吉澤康子訳
『スタンド・アローン』
2000年、ハヤカワ・ミステリ文庫

 とはいえ、きょうは申し分のない天気だった。今年のボルチモアの春は、初めのころ寒くて雨が多かったが、やがて気味が悪いほど絶好の天気に恵まれるようになっていた。日射しが降り注ぎ、からっとして、暑すぎず、猫のひたいほどのシティ・ガーデンにはアザレアやユリがあふれんばかりに咲いて、いつまでもしおれたり散ったりしないように見えた。おまけに、<オリオールズ>はいまのところ勝率六割だった。



  アメリカでの研修。ワシントンDCに滞在していた時、メリーランド州のボルチモアへの小旅行に参加した。列車でちょうど1時間行ったところ。ボルチモアは10年ぶりの訪問。やはりインナーハーバーが一番の見所。最初に水族館を見て、その後は自由行動となった。小高い丘にのぼってみる。ここからの街の眺望は最高。
 これはサミュエル・スミスの像。メリーランドで活躍した軍人で、ボルチモアの防衛に尽力した人物。スミスはボルチモアの市長もつとめており、議会人としても職務を行った。この像は何度も場所が移り、1970年に今の場所に落ち着いたとのこと。星条旗も現在のものではなく、13州時代のもの。


 メリーランド州は南北戦争においては、北軍と南軍が交じり合う地域となった。南北戦争と言うと、北部のアメリカ合衆国に属した州、南部のアメリカ連合国に属した州に分けられる。メリーランドは合衆国にとどまったが、自由州に接する奴隷州というから複雑だ。この州では、北軍に参加するものもいたし、南軍に参加する者もいた。南北戦争時代の大砲も残っている。

ピッツバーグのデュケイン砦・ピット砦…1997年秋2010/08/13 07:29

アンドリュー・カーネギー著、坂西志保訳
『カーネギー自伝』
2002年、中公文庫

 一八五〇年のピッツバーグは、その後の発達にくらべて大変違ったものであった。市は、まだ一八四五年四月十日の大火から回復していなかった。この火事は、町の繁華街を全部焼いてしまったのである。家屋はほとんどみな木造で、煉瓦の建物は少なく、耐火建築など全然なかった。ピッツバーグとその近郊の人口は全部入れても四万を少し超したばかりであった。町の商店街はまだ五番街まで伸びず、静かな通りで、劇場が一つあったのが人目についた。フェデラル通りとアリゲニー・シティは、また商社がところどころぽつりとあり、その間には広い空地があった。こんにちの五番街のまん中で、私はスケートをしたのを憶えている。私たちのユニオン鉄工所のあるところは、当時、またその後長い間、キャベツ畑であった。



 ピッツバーグはアメリカのペンシルバニア州にある都市。世界的にも評価が高いカーネギーメロン大学がある。その名からも分るように、鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの活躍により、ピッツバーグはアメリカ有数の企業城下町として発達した。しかし、鉄鋼業は衰退し、産業空洞化が加速したが、見事に他の産業を発展させ、復活した。そのため、ピッツバーグは「再生の街」として注目されてきた。ピッツバーグの街は高層ビル、緑、水辺がマッチして、おしゃれでこぎれいだ。

 短いがゆえに、アメリカの歴史はダイナミックだ。このピッツバーグはフランス人の入植によって築かれた。イギリス軍が攻め立てて、フランス軍を脅かす。フランス軍は英軍を撃退し、デュケイン砦を築く。この標識はデュケイン砦があったことを示すもの。


 その後、英軍が反撃し、フランス軍を追い出すことに成功した。今度は英国の首相ウィリアム・ピットの名前をつけたピット砦がつくられた。こちらの標識はピット砦があったことが記されている。この砦を軸に英国はオハイオ渓谷での基礎固めを確実なものにする。ピッツバーグという名前は、文字通り「ピットの都市」という意味。


セントルイスのゲートウェイ・アーチ…2007年秋~冬2010/08/17 08:00

コーネル・ウールリッチ著、稲葉 明雄訳
『コーネル・ウールリッチ傑作短篇集 別巻 非常階段』
「セントルイス・ブルース」
2003年、白亜書房

 娘がとびだそうと身かまえている廊下への戸口に、アダムズ母さんは手をのばしてひきとめた。そして、ごくさりげない口調でいった。
「メアリ、あんたのほうがよく知っているだろう、あのラジオをよく聴いているからね。セントルイス・ブルースって唄だけど、どんなものなの?」
 娘は喉をつまらせて、
「なんでも、沈む夕陽をみると悲しい、とかって!」
 いうなり、おびえたすすり泣きがもれてでた。彼女の足音が階段を駆けのぼった。まもなく彼女の部屋のドアがぴしゃっとしまった。



 ワシントンDCに滞在した後、ミズーリ州のセントルイスに移動した。セントルイスは中都市で、そんなに小さくもないのだが、首都ワシントンから来ると、田舎町という印象を受けた。国際交流のボランティアをやっている夫妻が迎えに来てくれて、一層フレンドリーな印象を受けた。


 セントルイスのシンボルであり、観光の名所でもあるゲートウェイ・アーチの中に入ることができた。滞在期間が短かったことと、研修のスケジュールもびっちりで、夜遅く、ぎりぎりの時間にアーチにたどり着いた。高さも、最大幅も192mも巨大な建築物である。内部は空洞で、小さなトロッコに乗って、展望台へと昇っていた。ここから見た夜景については、後ほど写真や感想を掲載したい。


戦艦オーロラ号…1980年夏2010/08/20 22:31

ジョン リード 著、 原光雄訳
『世界をゆるがした十日間(上)』
1957年、岩波文庫

 私たちは寒い、興奮せる、夜闇のなかへ歩みでた。それは、行動中の名もない軍隊がざわめき、巡察隊で帯電したようになっている夜闇であった。ペトロパウロフスク要塞が黒い塊まりになってボーッと見える河向こうから、シワガれた叫び声がきこえた。……足もとの歩道には漆喰の破片がちらばっていた。それは軍艦アウローラから射った二発の砲弾が命中して、宮殿の軒蛇腹から落ちたものであった。砲撃のためにうけた損害は、ただそれだけであった。



 ロシアのレニングラード(当時)で戦艦オーロラ号を見る。ネバ川に係留されていて、動くことはない。日露戦争でも使われた戦艦。革命家が多く乗船し、1917年10月25日(ロシア暦)、革命が始まった。オーロラ号は砲撃を開始し、これが合図となって、冬宮攻撃が行われ、ソビエト政権樹立へとつながっていく。
 ソビエト政権後の歩みは歴史が示す通り。共産主義の理想とは裏腹に、人権は抑圧され、言論や思想の自由のない社会が確立し、軍事力増強を優先して国民生活は後回しになった。それでも、世界で初めて宇宙に人を送り、米国と並ぶ大国になった。ソ連の世界における影響力は大きかった。1991年末に、ソ連邦は崩壊した。
 夏なので、川の水も動いていたが、これが冬となると、氷の中にある戦艦オーロラを見ることになるらしい。ただ、夏でも時々寒い日があった。船上で観光すると、8月の中旬というのに寒さを感じた時もあった。

ノヴォデヴィチ修道院の墓地…1980年夏2010/08/24 06:30

太宰 治作
「八十八夜」
『富獄百景・走れ メロス 他八編』
1957年、岩波文庫

  そうして笠井さんは、自分ながら、どうもはなはだ結構でないと思われるような小説を、どんどん書いて、全く文学を忘れてしまった。ときどき、こっそりチェ ホフだけを読んでいた。



  モスクワの中心部。ノヴォデヴィチ修道院はロシアでも有数の女子修道院。緑豊かなモスクワらしく、修道院を囲む城壁は湖や公園とも接している。この修道院 には墓地も設けられている。ロシア・ソ連時代の著名人物が埋葬さ れている。政治家ではフルシチョフ、グロムイコ、エリツィンなど。作家ではチェーホフ、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、マヤコフスキーなど。飛行機が好きな人な ら  イリューシン、ツポレフという名前は聞いたことがあるだろう。この二人の航空技術者も埋葬されている。なお、この修道院は2004年、ユネスコの世界遺産 に登録されている。


ベルリンの壁(その1)…2001年夏2010/08/27 23:07

岩淵 達治、五十嵐 敏夫編集責任
「トゥランドット姫--一名 第三百代言の学者会議」
『ブレヒトの戯曲(ベルトルト・ブレヒトの仕事 4)』
1972年、河出書房新社

党学者1 (他の代表がしゃべり出す前に)陛下! 古典理論家のカー・メー(ブレヒトは別の作品でマルクスの意味で使っている)の証明しているところによりますと、民衆が団結した場合、この民衆のゲバルトにうちかてるものはなにもありませんぞ。木綿が姿を消しているという問題は、私が代表しておるところの機 織職工党と、わたくしの敬愛する同僚の代表しております無衣党とを統一行動にふみきらせることができるでありましょう。
党学者2 しかしきみの言うように、上から下への上意下達方式ではなく、下から上へ、全員の意志のつきあげによるんだ。
党学者1 けっこうだ、下から上へな。わが党では、指導部は下部党員から選ばれていて……。



 イタリアのローマに滞在した後、チューリッヒ経由の飛行機に乗ってベルリンにやってきた。ベルリンの壁が崩壊してから10年近く。壁が崩壊して世界中で大騒動になっていた時期は過ぎ、かなり落ち着いてきた時期だ。第二次大戦後、ドイツが東西に分割されたが、ベルリンも同じように分割された。ドイツとベルリンの関係はこの点でフラクタルとも言えるだろうか。


 ベルリンに到着した時は夕方だったので、翌日から観光することになった。もはや解説する必要もないがベルリンの壁は、ソ連圏に入った東ドイツ政府が建設したもの。だからソ連の意思だったと言うこともできる。見た限りでは、簡単に越えれそうにも思えたが、この壁を越えようと失敗して命を落とした人も少なくない。壁を補強していたワイヤーが見える。


 壁に沿って、関連の写真が掲げられていた。同じ民族を引き裂いた悲劇の歴史に関するものだけに、暗い印象を与えるものが多い。高校時代に、諏訪功先生によるNHKラジオのドイツ語講座を聞いていたが、テキストのストーリーはベルリンに住むある一家に関するものだった。勿論、舞台は西ベルリン。東ベルリンはありえなかった。


ベルリンの壁(その2)…2001年夏2010/08/31 19:49

クレメンス・マイヤー著、杵渕博樹訳
『夜と灯りと』
2010年、新潮クレスト・ブックス

「南米を待つ」
  おじさんはどうしても西へ行きたかったんだな。その半年後に壁が壊れたけど、二度と戻ってこなかったし、何をやっているのか誰も知らなかった。一度も手紙 をよこさなかったし、だいたい生きているのかどうかさえおれは知らなかった。それから手紙をもらって、それで知ったんだよ。ルーディおじさんは、この変人 は、ハンブルクでバーをやって繁盛させてたんだ。



 これは西ベルリンに脱出しようとした人たちの写真や動画。最初の頃は、多少の怪我くらいを覚悟すれば脱出もしやすかったようだが、だんだんと東側の警戒が厳しくなって、命がけの脱出劇となった。脱出できずに、射殺された人もいる。


 ベルリンの壁に使われていたワイヤー。そういえば、先日(本年2010年)、あるバーに行ったら、ベルリンの壁のかけらがおいてあった。実は、日本でもベルリンの壁のかけらを持っている人は少なくない。壁崩壊後、お土産として大量に出回った。壁そのものが全部で155kmも長さがあったため、大量にコンクリートが使われており、崩壊した後に出たかけらも相当な量が出たのだろう。
  ほとんどの人は東ドイツから西ドイツへ、東ベルリンから西ベルリンへと逃れた。しかし、少数派とはいえ、自発的に東ドイツに定住した人もいた。たとえば、劇作家のベルトルト・ブレヒト、アメリカの原子爆弾の情報をソ連に流したスパイのクラウス・フックスなどである。また、ドイツのメルケル首相の父親のように、東ドイツの担当の牧師として移住したものもいる。