バッキンガム宮殿(その2)…1997年夏2012/06/01 20:30

C・C・ベニスン著、宮脇裕子訳
『バッキンガム宮殿の殺人』
1998年、ハヤカワ文庫

「はい、陛下」厳密に女王が何を意味しているかわからないままに、わたしは答えた。
「ジェイン、ご苦労さま」
 これが退出を促す合図だ。わたしは椅子から立ち上がってぎこちなくお辞儀をした。



 早朝にヒースロー空港に到着し、その後ピカデリーサーカスまで地下鉄で移動。その後、バッキンガム宮殿にきちんとたどりつく。衛兵の交代式が行われるのをみんな待っている。ロンドンは東京ほど暑い気候ではないのだが、日本の夏並みに暑い日だった。話しかけてきた人がいたので、ちょっと会話をした。馬に乗っている女性が凛々しく見える。


 やはりバッキンガム宮殿を見ないことにはロンドン見物は成り立たない。はじめてロンドンを訪問する場合は、最初に駆けつけるのがバッキンガム宮殿か国会議事堂という場合が多い。高校の英語のリーダーの教科書だったか、ビックベンをはじめロンドンの名所を紹介した文書があったことを覚えている。


バッキンガム宮殿(その3)…1997年夏2012/06/05 20:42

C・C・ベニスン著、宮脇裕子訳
『バッキンガム宮殿の殺人』
1998年、ハヤカワ文庫

 わたしは《タイムズ》の中の、ロイヤルファミリーその日のスケジュールが載っている王室行事日報に目を通した。もしかしたら、ロビンは宮殿の外で起こるか もしれないことを女王に注意しようとしたのではないか。だが、その日の女王のスケジュールは、任官式だけで、危ないことは何もなさそうだ。もちろん、場所 はバッキンガム宮殿。現代の君主のごとくありふれた一日だ。



 衛兵の交代式を厳かな気分で見る。赤い服にマッチの先のような形をした黒い帽子。英国に行ったことがなくても、この格好はいろんな写真や映像で見ていることが多い。自然に入っていける。こうした儀式は典雅で恭しい印象を与えてくれる。英国や日本などと違って王室、皇室がない国も多いが、王室制度を羨む人も少なくない。特に歴史の短いアメリカなどから見たら、こうしたものは神々しく映るらしい。


 デジカメと違って普通のカメラで撮影すると、後から現像したら他人の頭が写っていたりする。実は、1995年の段階でカシオのQV10というデジカメを購入していた。一般に普及したデジカメとしては最初の製品である。だいたい30万画素くらいのもの。ホームページにアップロードする程度なら十分なものだった。しかし、これを海外に持っていくことはなかった。当時としては、やはり普通のカメラの方が安定感があった。


バッキンガム宮殿(その4)…2008年夏2012/06/08 21:17

C・C・ベニスン著、宮脇裕子訳
『バッキンガム宮殿の殺人』
1998年、ハヤカワ文庫

「あるわけないわ。わたしたちビー一族は、女王蜂を守る自然界の階級組織には属していても、英国の貴族社会には入っていないもの」
「ナイトの一人もいないの?王様の愛人だった人とか?」
「先祖はみんな一般庶民よ、がっかりさせて申し訳ないけど」



 2回目のロンドン訪問。11年ぶり。またバッキンガム宮殿にやってきた。今回はオックスフォード、スコットランドに行くことも計画していたので、効率よくロンドンを見る必要がある。今回も衛兵の交代式を見る。音楽の演奏をたっぷり聞くことができた。日本でも自衛隊、海上保安庁などは音楽隊をつくっているが、こうした活動は社会にも大いに貢献しているんだなと思う。
 やはりデジカメだと何枚も気軽に撮影することができる。いくつも同じような写真を撮ることになる。後から消すことができるから、気楽なもんだ。この英国旅行は1週間しかなかったが、全部で200枚くらい写真を撮った。天気も良くて、宮殿を見るのは最適だった。









バッキンガム宮殿(その5)…2008年夏2012/06/12 21:28

C・C・ベニスン著、宮脇裕子訳
『バッキンガム宮殿の殺人』
1998年、ハヤカワ文庫

「お茶はどう?」わたしの向かい側の、テーブルに近い方の長椅子に腰を下ろしながら、女王はいった。
「まあ」
 驚きと感激の入り交じった表情が顔に出たのだろう。女王は、二つあるカップのうちの一つにミルクの容器を傾け、こちらに顔を向けて、入れるかどうかを目で尋ねた



 バッキンガム宮殿は、エリザベス女王陛下が生活をされ、執務をされている公的な場所である。さらに王室庁の事務本部としても機能しているとのこと。世界中いたるところに宮殿なるものはけっこうあるが、実際の宮殿として機能しているところは少ない。ロシアの宮殿も紹介したが、革命によって王室は潰され、皇帝一族は粛清されてしまった。ハプスブルク家の影響の強かった神聖ローマ帝国、その後のオーストリア帝国もなくなってしまった。


 先日、エリザベス女王の戴冠60周年を迎え、英国では盛大にお祝いがなされた。日本からは天皇皇后両陛下が即位60周年を記念した午さん会に出席されている。そう言えば、皇太子殿下もオックスフォード大学マートンカレッジに留学されているし、日英の王室・皇室どうしのお付き合いの深さをあらためて認識することができる。

バッキンガム宮殿(その6)…2008年夏2012/06/15 21:42

コナン・ドイル著、延原謙訳
『緋色の研究 』
1953年、新潮文庫

 やつらがロンドン中どんなところへ行こうとも、私はかならずふたりのあとをつけることにしたのです。あるときは馬車で、またときには歩いたこともありますが、馬車ならば逃げられることがありませんから、馬車のほうが都合がよかったのです。

 

 この街を初めて訪れた時、ロンドンにしては珍しい猛暑で、バッキンガム宮殿で観光しているのもきつかった。しかし、この2回目のバッキンガム宮殿の訪問は天気も爽やかで、快適だった。着いた当日は時差ぼけで苦しかったが、この日は体調も回復して宮殿の衛兵たちをしっかり見ることができた。同じことを何度も書いているが、彼らの頭はマッチ棒にそっくりである。トランペットを担当する人、打楽器を担当する人。ふだんはじっくりと練習をしているのだろう。なかなか演奏もうまく、スマートだ。





バッキンガム宮殿(その7)…2008年夏2012/06/20 00:25

サラ・ブラッドフォード著、尾島恵子訳
『エリザベス(上)』
読売新聞社、1999年

 女王がセント・エドワードの椅子の傍にすすみ立つと、大主教が寺院の四隅に向かい、
「皆のかた、こちらにいるのがエドワード女王であらせます。あなたがたのまごうことなき女王陛下であられる。本日、集まったのは陛下に忠誠を誓うためであるが、あなたがたも同じ考えか?」
 と問いかける。
 会衆が「女王陛下、万歳」と大声で唱和すると、トランペットが高く吹き鳴らされた。

 

 真夏のロンドン。バッキンガム宮殿の周囲はいつも多くの人たちが。ロンドンは緑豊かな公園も多く、バッキンガム宮殿もある。目の前を近衛兵が通る。日本に比べて乾燥しているので、喉がけっこう乾く。まばゆいばかりに輝く金色(こんじき)の天使像。ビクトリア女王を記念した碑がある。この近くも、いつも多くの人が集まっている。
 ロンドンにはやたらビクトリア女王にちなんだものや像が多い。英国が最も栄えていた時代の象徴でもあるからだろうか。2004年に訪問したジンバブエ、ザンビアの国境沿いにある滝も「ビクトリアの滝」という名前がつけられていた。





ケンジントン宮殿(その1)…1997年夏2012/06/22 20:16

サラ・ブラッドフォード著、尾島恵子訳
『エリザベス(下)』
読売新聞社、1999年

 エリザベスは義理の娘を決して温かく歓迎しようとはしなかった。彼女はたちどころにダイアナの本質を見抜き、好きになれない娘だと思った。チャールズはカントリーライフを愛すると思っていたようだが、それがまったくの誤解だったこともすぐにわかった。


 
 バッキンガム宮殿と比べると小ぶりな宮殿。ケンジントン宮殿である。チャールズ皇太子とダイアナ妃もお住まいになっていた。ケンジントン公園と隣接しているから、ここいらあたりを散策していると自ずと宮殿を見ることにもなる。ラウンド池、サーペンタイン・レイクなど水にも恵まれた公園であり、さらにその向こうにはハイドパークがある。ちょっと離れたところには超高級住宅地のノッティングヒルもあり、この周辺を散歩するのはとても楽しい。最初のロンドン訪問の半月後、ダイアナ妃の訃報が飛び込んできた。突然の出来事にびっくりしてしまった。

ケンジントン宮殿(その2)…2008年夏2012/06/26 20:06

サラ・ブラッドフォード著、尾島恵子訳
『エリザベス(下)』
読売新聞社、1999年

  エリザベスは皇太子夫婦の不仲もさることながらダブロイド紙が紙面で攻撃し続けるのを憂慮していた。皇太子が次第に自信を喪失し、失敗の原因を模索しているのを親友や知り合いは知っていた。苦しんだのはエリザベスとフィリップも同じだった。

 

  二回目のロンドン訪問。再びケンジントン宮殿を訪問する。ダイアナ妃がお亡くなりになってから11年経っていた。ケンジントン宮殿周辺にはダイアナ妃にちなんだガーデンもある。この近くにあるノッティングヒルもじっくり歩いてみる。このあたりの住宅は立派で、落ち着きがある。赤ん坊を大きな乳母車に乗せた若い女性が通りかかる。このあたりの住人は品があって、輝いて見える。

台南の雨…2007年夏2012/06/29 23:02

王恵君/二村悟著、後藤治監修
『図説台湾都市物語 台北・台中・台南・高雄』 (ふくろうの本)
河出書房新社、2010年

  台南は、もともと平埔族のシラヤ族台湾社と赤崁社が居住する区域であった。漢人が台南に移住するようになったのは明(1368~1644)の時代に閩南・広東地区の人々が、漁業や飢饉から逃れる目的で移住を始めてからである。



   旅行をしていて、難儀なものの一つに悪天候がある。旅行を準備している時は大雨なんか想定していない。ガイドブックも天気に良い時に撮影した写真ばかりが載っている。高雄から列車に乗って台南に向かう。駅に着いたら、孔子廟までは歩いてみようと考えていた。曇り空だが何とかなりそう。しかし、台南の駅に着いたら、どしゃぶりの雨。半端じゃない。これはスコールと言えるのか。
   雨季にあたり、1日に1回はこんな雨が降るのだそうだ。あまりにも激しい雨で、孔子廟に行くことは無理だった。例によって歩道にはバイクがたくさん止まっているし、歩くのもおっくうになる。そこでまた駅に戻り、台中に向かう。電車が動き出す頃には雨がやんできた。きまぐれな南国の空模様に振り回される。