北京の巨大デザート…2009年春2010/05/04 07:14

谷崎 光著
『中国てなもんや商社』
1999年、文春文庫

  この北京から天津へ向かう道を、以後私は何回となく往復することになったのだが、走るたびに必ず一度は事故に出会った。片道で三回見かけたこともある。だ いたい夜走っていてもヘッドライトをつけないのだ。事故は起こるべくして起こる。
  ときどき澱んだ水を湛えたクリークが出てくる。地平線の見える広い広い黄色い畑に、煉瓦作りの小屋。ところどころに背の低い潅木がわずかに茂っている。緑 の多い日本から来ると、中国の大地は寂しげで乾いて見える。

 

 北京の王府井のショッピングモール。そこの食堂街で麺類を注文するが、メニューの写真にあったデザートも注文する。甘いものをちょっと食べてみるのもいいと思った。
 小さな容器を想像していたが、実際の入れ物がものすごく大きかった。小さなビールのジョッキくらいはある。麺類の方も結構なボリュームだったけど、せっかく注文したので全部たいらげる。
 見ての通り、上層は果物のてんこ盛り。フルーツは大好きなので満足。スイカ、パイン、キーウィ、バナナがたっぷり。下の方はミルクと小豆みたいなもの。
 5月とはいえ、この日の北京は異様に暑く、こうした冷たいデザートは絶好の食べ頃でもあった。なんという品だったか書き留めておけば良かった。

ピーツコーヒー…2007年秋~冬2010/05/08 00:48

テイラー・クラーク著、高橋則明訳
『スターバックス--成功の法則と失敗から得たも の--』
2009年、二見書房

  一九六六年のエープリルフールの日に、のちにコーヒーの巨大な王国が誕生することの刺激となっ た<ピーツ・コーヒー・アンド・ティー>店は、バークレーズ・ウ゛ァインとウォルナット・ストリートの角になんの宣伝もなくオープンした。 「唯一の宣伝は煙突から出る香りだった」とピートはいう。「私が豆を煎っていると、人々が入ってきて尋ねたものだ。『このいい香りはなんですか?』とね。 彼らはコーヒーの本当の香りを知らなかったのだ。私はいつでもコーヒー自身に語らせようとしている」


 
  サンフランシスコのフィッシャマンズ・ワーフでクラムチャウダーを食べた後、コーヒータイム。どこかいい店はないかと探すと、 ピーツコーヒーという看板が。聞けば、このサンフランシスコ、バークレー界隈を本拠地とするコーヒー店とのこと。スターバックスよりもちょっと高級な感じ。店が基調としている色合いも渋い。
 こうした店では名前を登録して呼び出してもらうことが多い。日本人の名前をそのまま登録すると混乱するので、渡辺なら「wata」とか竹本なら「take」とか短めの名前にしておいた方がいい。スターバックスを始めた人物もピーツコーヒー働いたことがあり、それがスターバックスを創業につながったという。

ビッグアイランド・キャンディース…2007年秋~冬2010/05/11 20:30

  よしもとばなな著
  『サウスポイント』
  2008年、中央公論社

「そうだ、じゃあ帰りに空港のそばにある、有名なお菓子屋さんに行こうよ。チョコレートでコーティングされてるショートブレッドがものすごくおいしいんだよ。手作りで、すてきなパッケージに入っていて、とびきり甘くて、おみやげにもすごく喜ばれるんだよ。」
 珠彦くんは言った。



 ハワイ島で有名なお土産といえば「ビッグアイランド・キャンディース」で買えるお菓子類をあげることができる。
 国務省主催の研修における公式訪問だったので、日系人の経営者の方からも説明をしていただき、お土産までいただいてしまった。勿論、それ以外にも気に入ったものがあり、自分でも購入する。サキイカとチョコレートがくっついたお菓子も買った。
 ハワイだけに、マカデミアナッツを使ったチョコレートも多い。そのほとんどは現地でしか買えないようなので、どうしてもほしい人はヒロまで飛んでいくしかない。


 つくっている工程もガラス張りになっているので、ちょっとした社会科見学を味わえる。
 箱や包装紙が美しい日本にならって、ここでのお土産は綺麗な箱に入っており、包装も丁寧にやってもらえる。お客さんもたくさんいて、レジではずっと人だかりが。

ポリティカル・アメリカーナ…2007年秋~冬2010/05/14 21:09

Joyce Milton (Author), Elizabeth Wolf (Illustrator)
Who Was Ronald Reagan? (who Was...?)
2004, Grosser & Dunlap, New York

  どんなに暑くても、ダッチは泳ぐことはなかった。人命を救うために水に入る場合を除き、ライフガードは決して水着を濡らしてはならないとのルールがあった。ロック川は危険な水流で知られていた。過去には、人々は下流に流されていた。彼らはダムの水門の中に閉じ込められた。ダムの近くに潜って、人を引き上げることはライフガードの義務となっていた。
 ダッチは彼の仕事に誇りを持っていた。彼は毎回遊泳者を引き上げるたびに、事業所の近くにあった古い丸太に切れ込みを彫っていた。  (拙訳。註:ダッチはロナルド・レーガンの幼少・青年時代の愛称)

 

 ワシントンDCにあるお土産屋。ポリティカル・アメリカーナというこの地にふさわしい店がある。ホワイトハウスにも近く、便利な場所にある。大統領選挙の前の年で、まだ共和、民主両党とも候補者が決まっていない段階なので、ヒラリー・クリントンも含めて、いろいろな政治家にまつわる様々なグッズがある。過去の大統領の写真が入った鉛筆、ノートパッドなどもある。
 ワシントンは他の都市に比べて、政治の都という特徴がはっきりしているので、お土産も買いやすい。これがニューヨークとなると、何か高級なものでも買っていかないといけないというプレッシャーもかかる。
 この店では「私はリベラル派」「私は保守派」というステッカーもある。アメリカ人はこういう主張が好きである。別の店でもいくつかマグネットを買っていたので、ここでは鉛筆などを買う。あまりかさばらないものも多いので、ありがたい。

パディントンベア(その1)…1997年夏2010/05/18 20:48

マイケル・ボンド作、ペギー・フォートナム画、松岡享子訳
『くまのパディントン』
1967年、福音館書店

「そうだ、いいことを考えたわ!」と、奥さんはさけびました。「わたしたち、パディントン駅であなたを見つけたでしょう。だから、あなたのこと、パディントンって呼ぶことにしましょう?」
「パディントン!」
 クマはたしかめるように、パディントン、パディントンと何度もくり返しました。



 くまのパディントンは男女を問わず日本でもファンが多い。子供向けのお話の主人公である。拠点はロンドンだが、ペルー出身という設定。この熊はロンドンのパディントン駅で発見された。
 話はそれるが、ロシアで人気のチェブラーシカもどこかの島からオレンジと一緒に運ばれてくる。現地出身ではないことではパディントンと共通している。
 実際、パディントン駅に行ってみると、専門のコーナーがあった。この写真は真夏に撮ったものだが、パディントンはいつも冬用の格好をしている。

パディントンベア(その2)…2008年夏2010/05/21 20:45

マイケル・ボンド作、ペギー・フォートナム画、松岡享子訳
『くまのパディントン』
1967年、福音館書店

 ブラウンさんは、かがんで、パディントンの持ち物の残りを拾い上げました。持ち主のいなくなった今、それだけが砂の上に置かれていると、何だかとても小さく、さびしく見えました。
「これ、たしかにパディントンの帽子だわ。」と、それを調べていたジュディがいいました。
「ほら、中にちゃんとしるしがあるもの。」



 またまたロンドンのパディントン駅。ほぼ10年ぶりの訪問だが、相変わらずパディントンのコーナーがある。今回の旅では、実際にパディントン駅から電車に乗って、イングランドの他の地方に出かけた。 



 空港でもパディントンがいっぱい。とても楽しい雰囲気だ。ヒースロー空港の中である。パディントンの人気は年々高まっているのだろうか。大きなパディントンも含め、パディントンだらけだった。


ベリョースカ(その1)…1980年夏2010/05/25 20:48

米原万理著
『オリガ・モリソヴナの反語法』
2005年、集英社文庫

 フルゼンスカヤの駅舎前はごった返していた。老若男女が手に手にさまざまなモノを持って突っ立っている。鍋、ソックス、ピクルス胡瓜の瓶詰め、子供服、レコード盤、本、運動靴、電球……値段交渉する者もいれば、物々交換する者もいる。
 駅を出て人混みをかきわけながら右に進んでいくと、人がまばらになったあたりで大きな通りに出た。建物の壁面にコモスモリスカヤ大通りと青地に白く記したプレートが貼ってあるのを確認してから大通りを横断。大通り沿いに右へ進み、最初の角を左折した。道の突き当たりはパッと明るく開けた感じになっている。川が流れているはずだ。モスクワ川が。その向こうに大きな空間が広がる。ゴーリーキー公園。葉を落とした木々の海の中に針葉樹の緑が点在する。軽く粉砂糖をまぶしたように霜に覆われている。


 ソ連の一般庶民は長い行列に絶えながら、物資を調達していた。贅沢品は勿論のこと日常品の入手にも苦労していた。他方で、人脈やコネを使いながら、意外といろんな物を手に入れているということも言われていた。
 外国人専用の土産屋で「ベリョースカ」(白樺)という店があった。ソ連当時には特別な意味があった。外貨を喉から手が出るほど欲しがっていたソ連政府は外貨専用の店を積極的につくった。こうしたお土産屋だけではなかったと思う。
 当時は、クレジットカードも普及しておらず、ましてや学生がそんなものを持っているはずもない。現金でかなりの部分を持っていくのが常識だった。トラベラーズ・チェックも使った。日本語の名前で決済をしたが、店員どうしが「難しい字を綺麗に書くね」と話していたのを記憶している。当方、字は下手である。しかし、漢字を知らない人の前で、汚い漢字を書くと達人に見えるのだろうか。お釣りの渡し方がめちゃくちゃで、世界中の硬貨が混ざってくる。デンマークのクローネが入っていたこともある。

 このLPレコードそのものに「ベリョースカ」という名前がついている。ロシアの有名な音楽が入っていて、外国の観光客向きのものと言える。

ベリョースカ(その2)…1980年夏2010/05/28 22:45

加藤登紀子著
『日本語の響きで歌いたい』
1990年、NHKブックス

 私は赤ん坊のときもロシア人と一緒に暮らしていたんですけど、また毎日の生活のなかにロシア人がいるという感じになって、中学生の頃だったんですけど、店に行くとロシア人のおばちゃんのコックのキセンニャが「ミーラヤ ジェーブシュカ(可愛いお嬢さん)!」って言って抱きしめてくれてね。それがうれしかった。



 このロシア滞在において、何枚かLPレコードを買った。このアラ・プガチョワのもその1枚。当時はまだ日本では彼女の名前はあまり知られていなかったが、ソ連では大スターであり、ヨーロッパでも名前は通っていた。
 それから暫くして、プガチョワの名前は日本でも知れ渡る。加藤登紀子の歌う「百万本のバラ」が大ヒットした。実は、この歌は、アラ・プガチョワがロシア語で歌った 「百万本のバラ」《Миллион Алых Роз》がもともとの曲である。さらに言うと、このロシア語曲以前に、ラトビア語の原曲があるという。
 この時買ったLPには「百万本のバラ」はなかったが、素晴らしい曲がいくつも入っていた。その中で一番気に入ったのが《До свидания, лето》という曲。訳せば「さようなら 夏」とことになる。ロシアでは夏が短いだけに、「窓の外は9月・・・」などというフレーズが心にしみる。日本人でも、北国に住む人はこの部分にとても感動すると言う。ギターの前奏、伴奏、間奏が美しい。そのプガチョワの引退についての記事を見かけた。時の流れは止まらない。