ソウル・国立民俗博物館…2001年春(その4)2013/09/03 20:52

大村益夫、長璋吉、三枝寿勝編訳
『朝鮮短篇小説選 (下)』
岩波文庫、1984年

「少年行」(金 南天)
   自分がソウル生まれでなく、同じ平安道の、それも平壌の女だと分かってくれたことが、いかにもうれしいというように、女はながいことその顔から可愛い表情を消さずにいた。
「ことばよりも、チマとズボンとポソン!」



   これは朝鮮王朝時代の衣装だろうか。男女ペアだからどこかの夫婦と思われる。あまり朝鮮の歴史には詳しくないが。比較的地位の高い人だろうか。中国にしても韓国にしても、日本のように畳で生活したり、畳に布団をしく習慣はないようだ。ベッドで寝たりして、その点は欧米に近いようだ。椅子も欧米風のもののようだ。

ソウル・国立民俗博物館…2001年春(その5)2013/09/05 20:07

大村益夫、長璋吉、三枝寿勝編訳
『朝鮮短篇小説選 (下)』
岩波文庫、1984年

「五月の薫風」(朴 泰遠)
   十五年前の五月----
   ソウル「水典洞」の露地に群がって遊ぶこどもたちに向かって、自分の着ている二百七捨五両也の洋服をせいぜい自慢することができたウンシギだったからだ。



   前回のものに比べると、人数も多いので迫力がある。韓国の衣装というとチマチョゴリというステレオタイプの知識しかないが、これも朝鮮王朝時代のものなのだろうか。時代とともに変遷しているだろうし、性別は当然のこと、身分、場所や行事などによって着る服は異なるだろう。日本の着物だって、時代とともに移り変わっている。

ソウル・国立民俗博物館…2001年春(その6)2013/09/07 07:59

大村益夫、長璋吉、三枝寿勝編訳
『朝鮮短篇小説選 (下)』
岩波文庫、1984年

「留置所で会った男」(金 史良)
   車内は満州の広野へ移住していく移民群でいっぱいだった。座席にあぶれたものは、荷物のようにしゃがみこみ、うずくまり、倒れ、隅に横になり、通路でタンツボを抱いたまま前後不覚に寝入っている。



   この民俗博物館は建物だけではなく、ゆったりした敷地にいろんなものがあるので楽しく過ごすことができる。これは済州島でよく見られるトルハルバンだろうか。こした石像は日本のお地蔵さんみたいで、とっても親しみを感じることができる。天気も悪くなかったので、敷地内の散策もエンジョイすることができた。

ソウル・国立民俗博物館…2001年春(その7)2013/09/10 20:10

大村益夫、長璋吉、三枝寿勝編訳
『朝鮮短篇小説選 (下)』
岩波文庫、1984年

「狩り」(李 泰俊)
   雄壮な山々はまだ遠くはるかだったが、ここから十五里ばかり進むと、やっと一行の根拠地になる村が現れた。散髪屋があり、木賃宿があり、駐在所まであるかなり大きな通りだった。アンペラを敷いた暖かい部屋で簡素な旅の荷をひろげ、まずは雉をつまみ、ソバを作らせた。空腹であったせいもあるが、おなじ山でとれたためか、雉とソバがこんなにもぴったり合うのを韓は初めて知った。



  子どもたち。黄色の色あざやかな服装でいる。普通のトレパンみたいだが。たまたま何かの行事でいるのだろうか。みんなが輪になって、座っている。
   それから右側の方では、新婚さんが記念写真を撮っているのが見える。こういう派手な撮影は中国、韓国などでよくみかける。そして、奥の方に見える質素な民家のようなものとのコントラストも風情があって良い。

ソウル・国立民俗博物館…2001年春(その8)2013/09/12 19:50

大村益夫、長璋吉、三枝寿勝編訳
『朝鮮短篇小説選 (下)』
岩波文庫、1984年

「巫女図」(金 東里)
   この村の片隅にモファ(毛火)という巫女が住んでいた。モファ村から移ってきたので、モファと呼ばれたのだった。なかば腐って傾いた瓦屋根、その上にはコケが青く生え、ムッとする土の匂いが漂って、家の周囲にはそまつな石垣がめぐらされ、ところどころ崩れかけたまま荒れはてた城のように、うねうねと続いていた。



   これは台所だろうか。韓国は冬が寒いからオンドルが発達した。かまどで調理をして、そこから出てくる出る煙を床の下にまで誘導して、部屋の床をあたためる仕組みである。よく考えてみると、エネルギーを効率的に使っているし、部屋全体があたたまるから快適なシステムだ。日本の民家にはこうした仕組みはなくて、けっこう寒い冬を部屋で過ごしていたようだ。

広州・西漢南越王博物館(その1)…1999年春2013/09/14 07:48

青木五郎著
『史記 十二(列伝五) 新釈漢文大系 92』
明治書院、2007年

「南越列傳第五十三 史記卷一百一十三」
    南越王尉佗は、眞定の人なり。姓は趙氏。秦の時に已に天下を并せ、楊越を略定して、桂林・南海・象郡を置き、謫を以って民を徙し、越と雜處せしむること十三歳。



   香港から列車で広州にやってきた。当時は短い滞在でもビザが必要だったし、香港が中国に返還されてはいたが、実質上は別な国に入るのと同じだった。まだ中国に返還される前の香港にも来たことがあるが、その時とそんなに違いはなかった。
   さて、広州の見どころの一つである西漢南越王博物館に入る。とてもわかりやすい場所にあって、すぐに見つかる。南越国の王の墓が見つかって、これをもとに博物館がつくられた。1993年に完成しているから、比較的新しい博物館といえる。


広州・西漢南越王博物館(その2)…1999年春2013/09/17 20:21

青木五郎著
『史記 十二(列伝五) 新釈漢文大系 92』
明治書院、2007年

「南越列傳第五十三 史記卷一百一十三」
   戈船・下厲將軍の兵、及び馳義侯の發する所の夜郎の兵、未だ下らずして南越已に平らぐ。遂に九郡と爲す。伏波將軍益封せらる。樓船將軍(兵)は堅きを陷るるを以って、將梁侯と爲る。尉佗初めて王たりしより後、五世九十三歳にして國亡ぶ。



   これが一番有名な展示物。思わずぎょっとするような衣装だ。玉片とシルク糸で作られた絲縷玉衣という衣装。南越国というのは、紀元前200年頃から紀元前100年くらいまで約300年以上続いた王国でベトナム北部から中国南部までの領土を保有していた。
   秦の始皇帝が没し、各地が混乱したのに乗じて、この地域に南越国がつくられた。ベトナムと中国の南部、どんな国だったかあまり想像がつかない。いずれにしても広東語そのものも北京語とはかなり違うらしいし、広東あたりはベトナム的な風土もあるのだろうか。

プレトリア/クルーガー・ハウス(その1)…2004年夏(現地は冬)2013/09/19 20:27

ナディン・ゴーディマ著、スティーヴン・クリングマン編、福島冨士男訳
『いつか月曜日に、きっと』
2005年、みすず書房

「チーフ・ツルーリ 1959」
   ツルーリの先祖の土地はグラウトヴィル・ミッションと呼ばれる土地である。ナタール州ダーバンの近く、インド洋を臨ウムヴォティ・ミッション居留地が彼の故郷である。彼の人格はアフリカの片隅にあるこの小さな土地にどっかりと腰を下ろしている。アフリカの部族社会といえば草葺き屋根と土壁の住居があたりまえだけれども、ツルーリは子ども時代も含めて一度もそういう暮らしをしたことがない。



   プレトリアをガイドさんに案内してもらう。旅行者一人に対して、ガイドさん一人と贅沢だが、治安の悪い所も多いから、当然のことだろう。プレトリアは南アフリカ共和国の首都である。ただ、南アフリカの場合は変則的である。プレトリアは行政の首都、ケープタウンは立法の首都、ブルームフォンテーンは司法の首都と機能分担が行われている。かつてはヨハネスブルグを観光するのが定番だったようだが、あまりにも治安が悪く、プレトリア見物が観光コースになった。


   こちらはクルーガー・ハウスの対面にあるポール・クルーガー教会。なかなか重みのある建築だ。クルーガーの奥さんが埋されている。オランダ風の教会らしい。

プレトリア/クルーガー・ハウス(その2)…2004年夏(現地は冬)2013/09/21 09:47

ナディン・ゴーディマ著、スティーヴン・クリングマン編、福島冨士男訳
『いつか月曜日に、きっと』
2005年、みすず書房

「コンゴ河 1960ー61」
   アフリカ大陸の旅行地図は、ライオンや象ばかり描くやり方が長年続いてきたが、もういまではこうした地図は時代遅れだ。これからは動物地理学的な情報ばかりでなく、民族誌的な情報も盛り込んだ地図が必要になるだろう。なにしろ人間たちがアフリカ大陸に戻ってきたのだから。



   ガイドさんによってクルーガー・ハウスに案内される。ポール・クルーガーは現地で活躍した政治家である。ポール・クルーガーは、トランスヴァール共和国の大統領をつとめた。クルーガーは植民地だった南アフリカで生まれた生粋のボーア人である。
   植民地を巡って、イギリスとボーア人は何度も戦争を行っている。イギリスに反抗したボーア人が内陸に移動して、トランスヴァール共和国を建国している。これはクルーガー・ハウスのキッチン。全体的に質素だ。

プレトリア/クルーガー・ハウス(その3)…2004年夏(現地は冬)2013/09/24 19:57

ナディン・ゴーディマ著、スティーヴン・クリングマン編、福島冨士男訳
『いつか月曜日に、きっと』
2005年、みすず書房

「脱走者と永遠に輝ける夏 1963」
   私が書きはじめたのは九歳だった。作文の時間に書いた詩に自分でもびっくりした。あたえられた題は「ポール・クルーガー」だった。当時の南アフリカの青少年向けの読みものではありふれた主題である。



   ポール・クルーガーはトランスヴァール共和国の軍人、国会議員、閣僚、副大統領などの要職を占め、大統領にまで登りつめた。ボーア戦争においても、クルーガーは一度英国に併合されたトランスヴァール共和国の独立を取り戻すなど目覚ましい活躍をしている。
   しかし、第二次ボーア戦争では英国が有利な位置に立ち、トランスバール共和国を敗退させるに至った。クルーガーは海外へ逃亡し、各国の支援協力を仰ぐが、目的を達することはできず、スイスで客死した。