カリフォルニアのワイナリー(ソノマ・ナパ)…2007年秋~冬(その14)2015/07/02 09:07

サガン著、朝吹登水子訳
『赤いワインに涙が…』
新潮文庫、1987年

   彼女は手でリュカを、さらに酒瓶をさえ示すしぐさをしたので、酒瓶の所有者はちょっと不安になった。


   カンディでも試飲というかちょい飲みができる。口当たりのいい、とても飲みやすいワインだ。前にも書いたように、まだまだアメリカ国内で日程があるので、お土産に買うのはよそう。スーツケースにワインボトルを入れて持ち歩くのも煩わしい。それにサンフランシスコも研修に加え、週末は観光が予定されているので、そこでお土産を買うかもしれない。


カリフォルニアのワイナリー(ソノマ・ナパ)…2007年秋~冬(その15)2015/07/04 06:19

エリザベス・オールドフィールド著、奥船桂訳
『カリフォルニアの夢』
ハーレクイン・イマージュ、1986年

   おまけに、サンフランシスコの坂道!頂上まで登ってやれやれと思うと、次にはジェットコースターのような下り坂。


   ワインカントリーのあたりにも牛が何頭かいた。のんびり草を食んでいる姿を見ていると心が落ち着いてくる。狭い厩舎の中で配合飼料を食べさせられている家畜の姿を見るのは痛々しいものだ。温暖なカリフォルニアの気候の中で牛もすくすくと育っているのだろう。山々を背景にして、牛が食事をしたり、寝そべっている光景を見ていると、仕事のために日本に戻りたくなくなる。


カリフォルニアのワイナリー(ソノマ・ナパ)…2007年秋~冬(その16)2015/07/07 09:27

エリザベス・オールドフィールド著、奥船桂訳
『カリフォルニアの夢』
ハーレクイン・イマージュ、1986年

   サンフランシスコに通勤する人たちのベッドタウンは整然としていた。


   ソノマのワイナリーを見た後は、ナパ郡にやってきた。既にこのブログでも紹介したが、こちらではCIA(The Culinary Institute of America)という超エリート料理学校を見学するのが中心だった。この周辺にもワイナリーがある。ブドウ畑が広がり、美しい山々や木々が背景となっている。ここは自然にも恵まれているし、おしゃれなお店やレストランも多い。値段もそれなりにするが。


カリフォルニアのワイナリー(ソノマ・ナパ)…2007年秋~冬(その17)2015/07/09 08:59

ヒュー・ジョンソン著、小林章夫訳
『ワイン物語(下)ー芳醇な味と香りの世界史ー』
平凡社ライブラリー、2008年

   ナパ渓谷の地歩を固めたのはドイツ人によるところが大だった。一八五〇年代から、かなりの人数のドイツ人が移住してきた。


   ここもCIA(世界最高水準の料理学校)あたりの風景。CIAはわざわざ私の名前まで表示して、日の丸まで掲揚して、歓迎してくれた。いずれにしても、のんびした雰囲気は変わらない。実は、CIAの中にあるレストランで食事をしたかったのだが、日程が立て込んでいて、車の中でハンバーガーを食べることになってしまった。ハンバーガーといっても、手作りのお店だったけど。またサンフランシスコに戻らないといけない。ここでは1泊だけしたが、もっと長く滞在したかった。ナパのワイナリーはメインではなかったが、少し見学することができた。



ヴィリニュス(リトアニア)旅情(その1)…1980年夏2015/07/11 06:12

チュスワフ・ミウォシュ著、工藤幸雄訳
『囚われの魂』
共同通信社、1996年

   なるほど、いまだに私はバルト諸国にこだわることがやめられないのは事実だ。


   この時はソビエト連邦があり、リトアニア共和国もその一員だった。レニングラード(現在サンクトペテルブルグ)に滞在中、オプショナルツアーがあるのを知って、リトアニアのヴィリニュスへの小旅行を申し込んだ。寝台列車で行って、また同じ電車で戻ってくる行程だ。
   行きの列車で朝食にパンと紅茶が出たことについては、既に写真も含めてアップした。見てくれている人もいるだろう。到着前、森と湖に恵まれた大地が開けてくる。当初は予定になかっただけに、リトアニアを訪問するに胸が高鳴ってくる。列車は片道10時間はかかっただろうか。




ヴィリニュス(リトアニア)旅情(その2)…1980年夏2015/07/14 08:54

チュスワフ・ミウォシュ著、工藤幸雄訳
『囚われの魂』
共同通信社、1996年

   バルト諸国-
-エストニア、リトワニア、ラトビア--は、周知の通りヨーロッパ大陸の片隅にある。


   ヴィリニュス駅前の大通り。朝早く着いたので、車とか人間は少なかった。リトアニアはバルト諸国の中で一番南にある。レニングラード(現在サンクトペテルブルグ)からだと実はヘルシンキの方がはるかに近い。ヴィリニュスまでは直線でも400キロある。最初のナホトカからハバロフスクへの寝台列車に比べると、レニングラードに滞在しながらの旅行だったのでかなり楽だった。


ヴィリニュス(リトアニア)旅情(その3)…1980年夏2015/07/16 09:00

チュスワフ・ミウォシュ著、工藤幸雄訳
『囚われの魂』
共同通信社、1996年

   リトワニア、ラトビアの両言語は違いに似ているが、この言語は言語学上の謎である。


   ここは旧市庁舎。当時は美術館だっただろうか。見ての通り、銅像が立っている。頭が禿げていないのでレーニンではないと思う。今はこの銅像はないらしい。撤去されたということはソ連関係者だろうか。この旧市庁舎の前には大きな広場があり、このあたりはヴィリニュスの中心的な場所。


ヴィリニュス(リトアニア)旅情(その4)…1980年夏2015/07/18 06:59

チュスワフ・ミウォシュ著、工藤幸雄訳
『囚われの魂』
共同通信社、1996年

   エストニア、ラトビア国民のほとんどはプロテスタントで、リトワニア国民はカトリックだった。


   これはどこかの教会。この寺院はロシア正教会のものだろう。ソ連時代は宗教はあまり歓迎されていなかったが、リトアニアはもともとカトリックの多い地域。経済、文化的にもドイツからの影響もかなり受けている。様々な文化が交わる地でもある。青と白のソ連製らしき車が走っていた。


ヴィリニュス(リトアニア)旅情(その5)…1980年夏2015/07/21 09:03

チュスワフ・ミウォシュ著、工藤幸雄訳
『囚われの魂』
共同通信社、1996年

   私は、ポーランド語を話す両親の子としてそこで生まれた。リトワニア語名の川のほとりだった。


   とても落ち着いた感じの石畳のある通り。人通りもまばらで寂寥とした感じがあるが。後から別のバルト諸国であるエストニアのタリンを訪問することになるが、そこも似たような石畳がけっこうあった。やはりサンクトペテルブルグやモスクワなどロシアの街とは佇まいが異なる。


ヴィリニュス(リトアニア)旅情(その6)…1980年夏2015/07/23 08:59

チュスワフ・ミウォシュ著、工藤幸雄訳
『囚われの魂』
共同通信社、1996年

   もちろん、老人たちは帝政ロシア時代の支配を知っている。


   ヴィリニュス大学の構内。案内してくれたガイドさんがここの卒業生と言っていた。リトアニアでは一番の大学なのだろう。大学の建物を背景に、ガイドのリエダさんの写真を撮る。
 この建物も歴史と伝統を感じさせる。ヴィリニュス市内どこに行っても、落ちついた風情がある。ヨーロッパの人たちは昔からの建物を保存・維持していくことに熱心だ。