ギラデリの弾き語り…2007年秋~冬2012/10/02 20:53

アラム・サロイヤン著、三谷貞一郎訳
『花のサンフランシスコ』
晶文社、1982年

 彼は、ちっぽけな、ぐっすり眠りこけているカリフォーニアの町から町へ移り住んで、大きくなった。そこでは、パステル色の光に包まれ、通りで遊んでいる子供達の声が、午後の蝶の羽音のように、響いている。
「おーい、ジョニー」
「こっちへこいよ」



 アメリカ研修の日程の中で、公式行事のない日曜日にサンフランシスコを案内してもらった。最初にサンフランシスコに一泊して、さらに泊りがけでワインの里であるナパ、ソノマでの研修を終えて、再びサンフランシスコに戻っていた。観光の最後にギラデリスクエアという一画にやってきた。
 サンフランシスコはどこへ行ってもこぎれいだが、ここは特に洗練された、おしゃれな場所。ここのチョコレートは有名で、いくつかお土産に買ってしまった。楽しそうにギターを弾いている人がいた。明るくて、快活な曲だった。その曲に感動して、お金を投げ入れている人も多かった。


アラモアナの踊り…2007年秋~冬2012/10/05 19:53

ジェシカ サイキ著、池田年穂、倉橋洋子訳
『プルメリアの日々  ジェシカ・サイキ短篇集Ⅰ』
西北出版、1994年

<家業>
 コメタニ夫妻は一週間に七日、極めて勤勉に働いた。それというのも心の奥にある目的があったからだ。彼らは日本に戻るお金をいつか手にするだろう。「ハワイはいい所だけれど、日本ほどいい所はどこにもないってね」コメタニさんは口にした。



 3週間にわたるアメリカの研修も残すところわずかとなった。というか公式日程は全部終えて、最後の晩餐となった。ホノルルのアラモアナショッピングセンターのレストラン街のどこかで食事をすることにした。クリスマス前のイベントだろうか、楽しい踊りが披瀝されていた。子供たちやらぬいぐるみやら、とても快活な踊りである。
   ワシントンDC、中西部、カリフォルニアとアメリカ本土を巡り、ハワイでも充実した日々を過ごしたが、翌朝には帰国するための便に乗らなくてはならない。オアフ島だけでなく、ハワイ島にも行ったし、本当に充実した研修だった。アメリカで過ごせる残された時間も少ない。何とも言えない気持ちでこの踊りを見ていた。

サハリン便の機内食(その1)…2012年夏2012/10/09 21:05

森林太郎著
『鷗外選集 第15巻』
岩波書店、1980年

<樺太脱獄記 コロレンコ>
   北の国は日が短い。冷たい霧が立つて来て、直ぐに何もかも包んでしまふ。己は為事をする気にならない。ランプを点けるのが厭なので、己は薄暗がり、床の上で横になつてゐる。  



  忙しい日程の中、久しぶりに海外に出ることができた。ロシア訪問はビザも必要になるが、ギリギリ間に合った。成田からユジノサハリンスクに向かう。ユジノサハリンスクは日本統治下の時代は豊原という都市だった。さて、この便はチャーターでこの時期だけ飛んでいるものである。ウラジオストク航空がアエロフロートと共同で運行していた。成田空港の第1ターミナルから搭乗だが、バスに乗って、飛行機の待機している第2ターミナルまで行くことになる。
  短い距離ではあるが国際便なので、機内食は出るのかと期待していた。以前、もっと短い国際線でもきちんと機内食が出たことがある。ロンドンとダブリンの間の飛行での話だ。期待通りに、ブルーの箱に入った機内食が配られた。「快適な食欲を」と書かれている。

サハリン便の機内食(その2)…2012年夏2012/10/12 20:29

森林太郎著
『鷗外選集 第15巻』
岩波書店、1980年

<樺太脱獄記 コロレンコ>
 何分か立つたらしい。何時間か立つたらしい。己は、ぼんやりして、悲しい物懐しい旅の心持が、冷やかに、残酷に襲って来るのに身を任せてゐた。 
 


 お盆の時期なので飛行機は満員だと思ったが、けっこう空いている。ロシア人がけっこう乗っているかと思ったが、ロシア語を話している乗客は少なく、英語がやたら聞こえてくる。サハリン石油開発で現地に行っているビジネスマンや技師たちだろうか。
 機内食の箱を開けると、ハムの入ったパン、オレンジジュースが入っている。軽食ではあるが、真夏の時期はこれくらいで十分である。後からコーヒーも出た。お客さんが少ないので、配膳もスムーズに進む。ソ連時代に乗ったアエロフロートとサービスは大差ない。微笑みもない、そっけないサービスだが、このくらいのフライトだとビジネスライクな方がいい。

ユジノサハリンスクのホテルの朝食…2012年夏2012/10/16 21:02

森林太郎著
『鷗外選集 第15巻』 
岩波書店、1980年

<樺太脱獄記 コロレンコ>
 この船は囚人を樺太に送る船である。さうでなくても、軍艦は紀律が厳しい。それがこんな任務を帯びて航海するとなると、一層厳しくしてある。昼間だけは甲板の上で、兵卒が取り巻いてゐる中を囚人が交る交る散歩させられる。その外は甲板に出る事はできない。



 サハリンのユジノサハリンスクにあるベールカホテルに泊まった。丸太でつくられた趣のあるホテルである。朝食の場所についてはよくわからなかったが、何とかたどりついた。自分で好きなものを選ぶ。簡単なものしかないが、ロシア風ギョウサもあった。朝早く行ったので、ほかに客は一人しかいなかった。このあたりでは、ソ連時代の慣行が根付いているようで、ホテルとかお店とかの店員さんや係の人の態度はぶっきらぼうだ。

ユジノサハリンスクのハンバーガー…2012年夏2012/10/19 20:18

森林太郎著
『鷗外選集 第15巻』 
岩波書店、1980年

<樺太脱獄記 コロレンコ>
「仲間とは誰の事だい。」
「あの樺太の第七号舎に残しておいた仲間さ。あいつらは今時分安心して寝てゐるだらう。それにこつちとらは、こんなに迷ひ歩くのだ。逃げなければ好かつたになあ。」



  ユジノサハリンスクの街を歩く。気温は27度まで上がったが、体感温度はもっと高かった。それでも東京の夏に比べるとはるかに涼しい。8月の中旬だ。サハリンデパートなども含めてのぞいてみたが、寂れた感じの店が多い。一人でふらっと入れるようなカフェが少ない。結局、駅前のレーニン広場のあたりの露店で、ハンバーガーとホットドッグを買うことにした。アイスクリームも買って食べた。ロシア人は昔からアイスクリームが好きだ。ソ連時代のモスクワ、レニングラードでもアイスクリームをよく買って食べたことを思い出した。

ヨハネスブルグ空港でステーキ…2004年夏(現地は冬)2012/10/23 21:58

シドニィ・シェルダン著、天馬龍行訳
『新超訳 ゲームの達人(上)』
2010年、アカデミー出版

   バンダは白人を憎んでいる。ここは黒人の土地のはずだ。白人はよそ者にすぎない。南アフリカにはたくさんの部族が住んでいる。バスト、ズールー、ベチュアナ、マタベレ。これらの部族のすべてはバンツー族に属している。


 アフリカの南部の旅行を終えて、日本に帰ることになった。南アフリカ共和国のヨハネスブルグ。空港の敷地内にあるレストラン街のステーキ屋。メニューがあまりにも細かくて、よく分からない。写真はあまりきれいに写っていないが、美味しそうな感じだった。現地のガイドさんが最後に案内してくれた店。
 帰りはすっかりくつろいでいたが、日本を発ってこの空港に初めて到着した時は緊張していた。ヨハネスブルグは世界で最も治安の悪い都市で、空港で両替したら、後をついてこられて、襲われるなんて話もよく出ていた。大げさに語られていた面はあったが。帰国時はすっかり安心して、食事をすることができた。ステーキはとてもおいしくて、満足した。

ビクトリア滝でステーキ…2004年夏(現地は冬)2012/10/26 23:01

『鉄の時代』
J・M.クッツェー著、くぼたのぞみ訳
2008年、河出書房新社

「ええ、そういいましたよ、それは本当ですから。でも、だれがあの子たちをこんなに残酷にしたんですか?あんなに残酷にしたのは白人たちですよ!そうです!」彼女は深く、激しく、息をついた。私たちは台所にいた。フローレンスはアイロンがけをしていた。アイロンを持つ手にぐいっと力が入った。私を睨みつけた。その手に、私は軽く触れた。彼女がアイロンを持ち上げた。シーツには茶色い焦げ痕がつきはじめていた。



  成田空港を出発して、シンガポール、ヨハネスブルグを経由し、3便のフライトが終わって、ようやく32時間後にジンバブエのビクトリアの滝についた。そのままザンベジ川のクルーズ。夕陽が沈んで、クルーズが終わって、レストランで食事。車で案内してもらったので、レストランの名前も覚えていない。


  牛肉だけでなくて、野生の動物の肉まである。虫の入った前菜も持ってきたが、いつの間にか片付けられてしまった。だったら、無理して食べることもない。長時間の移動の後だったので、意識は朦朧としていた。牛肉のステーキはおいしかったが。

ビリニュス行き列車で朝食…1980年夏2012/10/30 21:29

クレメンス・マイヤー著、杵渕博樹訳
『夜と灯りと』
2010年、新潮クレスト・ブックス

<君の髪はきれいだ>
 彼は町中リトアニア人を探し回った。数えきれないほどのロシア人に会って、リトアニア人はいないか尋ねた。
 カク・ジェラ?元気?リトアニア語話せる?ニェト?誰かリトアニア語話す人知らない?



   レニングラード(現在はサンクトペテルブルグ)に滞在していた時、オプショナルツアーでビリニュスに出かけた。現在はリトアニアは独立しているが、当時はソビエト連邦の一共和国だった。寝台列車に乗って、ビリニュスに向かった。列車の中で朝食のパンを食べた。コーヒーか紅茶かたずねられたので、紅茶にした。ドイツ語で聞かれたような気もする。
 後悔してもしょうがないが、このロシア・リトアニアの旅行では食事の写真がほとんど撮れていない。草鞋のようなステーキが何度も出てきたし、料理の写真はきちんと撮っておくべきだった。泊まっているホテルでの食事がほとんどの旅行だったので、カメラを置いて食事をすることが多かったからだ。ビリニュスはロシアと文化圏も違うのか、垢抜けた印象が強かった。街並みもきれいで、西欧的な印象を受けた。