ベルリンの壁(その1)…2001年夏2010/08/27 23:07

岩淵 達治、五十嵐 敏夫編集責任
「トゥランドット姫--一名 第三百代言の学者会議」
『ブレヒトの戯曲(ベルトルト・ブレヒトの仕事 4)』
1972年、河出書房新社

党学者1 (他の代表がしゃべり出す前に)陛下! 古典理論家のカー・メー(ブレヒトは別の作品でマルクスの意味で使っている)の証明しているところによりますと、民衆が団結した場合、この民衆のゲバルトにうちかてるものはなにもありませんぞ。木綿が姿を消しているという問題は、私が代表しておるところの機 織職工党と、わたくしの敬愛する同僚の代表しております無衣党とを統一行動にふみきらせることができるでありましょう。
党学者2 しかしきみの言うように、上から下への上意下達方式ではなく、下から上へ、全員の意志のつきあげによるんだ。
党学者1 けっこうだ、下から上へな。わが党では、指導部は下部党員から選ばれていて……。



 イタリアのローマに滞在した後、チューリッヒ経由の飛行機に乗ってベルリンにやってきた。ベルリンの壁が崩壊してから10年近く。壁が崩壊して世界中で大騒動になっていた時期は過ぎ、かなり落ち着いてきた時期だ。第二次大戦後、ドイツが東西に分割されたが、ベルリンも同じように分割された。ドイツとベルリンの関係はこの点でフラクタルとも言えるだろうか。


 ベルリンに到着した時は夕方だったので、翌日から観光することになった。もはや解説する必要もないがベルリンの壁は、ソ連圏に入った東ドイツ政府が建設したもの。だからソ連の意思だったと言うこともできる。見た限りでは、簡単に越えれそうにも思えたが、この壁を越えようと失敗して命を落とした人も少なくない。壁を補強していたワイヤーが見える。


 壁に沿って、関連の写真が掲げられていた。同じ民族を引き裂いた悲劇の歴史に関するものだけに、暗い印象を与えるものが多い。高校時代に、諏訪功先生によるNHKラジオのドイツ語講座を聞いていたが、テキストのストーリーはベルリンに住むある一家に関するものだった。勿論、舞台は西ベルリン。東ベルリンはありえなかった。