ヴィリニュス(リトアニア)旅情(その10)…1980年夏2015/08/01 06:50

チュスワフ・ミウォシュ著、工藤幸雄訳
『囚われの魂』
共同通信社、1996年

   現代詩人のひとりびとりにとって、バルト諸国の問題は、形式、作詞法、隠喩などのことより、はるかに重要だと私は思う。


   ここもヴィリニュス市街地の一画。リトアニア大公国の時代はヴィリニュスは国土のど真ん中にあった。この都市はポーランド領になっていたこともある。リトアニアに限らず、バルト諸国はユダヤ人の人口が多かったらしい。樹木が植えられているが、北の国だから、寒い時期も含めて、ここで育つ種類のものだろう。雪の中のヴィリニュスも一度見てみたい。


ヴィリニュス(リトアニア)旅情(その11)…1980年夏2015/08/04 08:58

チュスワフ・ミウォシュ著、工藤幸雄訳
『囚われの魂』
共同通信社、1996年

   スターリン主義者が自分を現実から遊離させる手法の巧みさは見事である。


   これもヴィリニュス市街地のどこか。バスと車が写っている。自然は勿論だが、古くからある寺院などは時間が経っても、そんなに様相は変わらないことは多い。修復はしているだろうが。それに比べると自動車などはその時代の雰囲気を反映していてなかなかいい。
   ソ連の乗用車はそんなに性能のいいものではなかったが、ある種の温かみがあり、親しみを抱く人も少なくない。そして、右側には兵士がたくさんいる。当然、ソ連軍に所属する人たちだろう。


ヴィリニュス(リトアニア)旅情(その12)…1980年夏2015/08/06 09:11

チュスワフ・ミウォシュ著、工藤幸雄訳
『囚われの魂』
共同通信社、1996年

   今はバルト諸国に話をしぼる。かの諸国民は無思慮な残酷さで扱われているわけではない。


   ビルの建設現場だろうか。当時はソ連時代だったから、こんな工事ものんびりとやっていたのだろう。何をつくっているかよく分からないが。ソ連時代はやたら「レモント」”ремонт”という看板が出てて、「修理中」の建物も多かった。建物の基礎が悪いのか、無理に仕事をつくっているのか、いろんな事情があったのだろう。チェブラーシカでも建設労働者が「レモント」の看板を掲げて、トランプに興じている場面がある。
   この時も雲が多い時間帯はあったが、雨は降らなかった。到着直前は雨が降っていたようだ。レニングラード(現在サンクトペテルブルグ)では、ピョートル宮殿に行った時は雨が降っていた。ただ、日本のような土砂降りは少ない。


ヴィリニュス(リトアニア)旅情(その13)…1980年夏2015/08/08 06:10

チュスワフ・ミウォシュ著、工藤幸雄訳
『囚われの魂』
共同通信社、1996年

   例えば、バルト諸国の民は、富農の文化を民族文化とみなしたがる。


   これも移動中に撮った写真だろうか。たぶん車の中から撮影したのだろう。こういった普通の道路のあたりも緑が多い。このヴィリニュスへの小旅行はメニューが凝縮されていて、なかなかいい旅行だった。リトアニアは緯度で見ると、スコットランドあたりに位置している。当然のことながら、冬はかなり気温が低くなる。


ヴィリニュス(リトアニア)旅情(その14)…1980年夏2015/08/11 09:27

チュスワフ・ミウォシュ著、工藤幸雄訳
『囚われの魂』
共同通信社、1996年

   バルト諸国のソ連邦への併合は、メキシコやチリの人間にとっては、些細な出来事と映ろう。だが"人民民主国"に住む数千万の人にはそうではない。


   ゲームセンターというかゲームコーナーがあった。地元の子供たちで賑わっていた。今は自分でゲーム機やらスマホを持ってゲームをやるが、当時としてはこういうところに行くしかなかった。まだファミコンが出るのもちょっと先の時代だ。同じような施設はレニングラード(現在サンクトペテルブルグ)にもあった。それも写真に撮っておいたので、後で公開したいと思う。


ヴィリニュス(リトアニア)旅情(その15)…1980年夏2015/08/13 09:01

チュスワフ・ミウォシュ著、工藤幸雄訳
『囚われの魂』
共同通信社、1996年

   ウクライナの大都市で汽車を待っていた。構内の壁には、名状し難いまでに醜悪な肖像と横幕が懸かっていた。


   ある建物に大きく出ていたレオニード・イリイチ・ブレジネフの写真。ソ連共産党書記長であり、最高会議幹部会議長(国家元首)も兼任していた。リトアニア語とロシア語でスローガンが書かれている。前者は意味が分からないが、ロシア語と同じ意味だろう。日本語に訳すと「われわれの目的は恒久平和とすべてのソビエト国民にとっての安全である」という意味になる。
   まさに、リトアニアがソ連の一員であった時代を映し出している写真だ。ブレジネフはソ連共産党第一書記・書記長を1964年から死去する1982年までの長きにわたってつとめたので、ある年代以上の人にとっては馴染みのある人物である。


ヴィリニュス(リトアニア)旅情(その16)…1980年夏2015/08/15 06:17

チュスワフ・ミウォシュ著、工藤幸雄訳
『囚われの魂』
共同通信社、1996年

   バルトの運命は、重苦しい心の負担となった。


   少し高い建物から旧市街をのぞむ。歩いて街を見ている時とは違って、あるいはそれ以上にビリニュスが美しく見えてくる。余計な看板とかのぼりとかないから、街並みが一層素晴らしく感じられる。リトアニアはソ連の共和国で一番先に独立を宣言したところだ。
   この時には、それから11年ちょっと後にソ連が解体するとは想像できなかった。人々の生活はそんなに豊かに見えなかったことは事実だが。ただ、このソ連訪問の直後だろうか、『ソビエト帝国の崩壊―瀕死のクマが世界であがく 』『崩壊した帝国――ソ連における諸民族の反乱』などという本が出て、しっかり読んだものだ。こうした未来を予見した書籍もけっこうあったと言える。


ラスベガスを歩く(その1)…1996年夏2015/08/18 08:55

ジョン・リドリー著、渡辺佐智江訳
『ネヴァダの犬たち』
早川書房、1997年

   野ウサギが一匹、道に飛び出した。

   ネバダ州のラスベガスにやってきた。この時は直行便もなく、サンフランシスコで乗り換えた。アメリカの国内線の乗り換えはけっこう面倒で、アメリカ人でさえも間違ったり、乗り遅れることも多いと聞く。荷物もきちんと乗継便に運んでくれたかどうかも不安だった。サンフランシスコ空港で、荷物担当の人が「さっき日本からの荷物を取り扱った。あなたたちの荷物は間違いなく国内線に運んだ」と教えてくれて、安心した。
   ようやくラスベガスに到着。マッカラン国際空港に着いた時から、スロットマシーンだらけである。さすがラスベガスという雰囲気。入国審査官が「スロットマシーンは1回だけやれば十分」とユーモアたっぷりにアドバイスをしてくれた。勿論、空港だけではなく各ホテルにもスロットマシーンはたくさんある。



ラスベガスを歩く(その2)…1996年夏2015/08/20 09:04

ジョン・リドリー著、渡辺佐智江訳
『ネヴァダの犬たち』
早川書房、1997年

   ベガスはしょうもないことだらけの街だった、というか、街だ。

   ラスベガスは暑い街だった。真夏ということもあるが。気温も40度近くまで上がる。太陽の光線もまぶしい。昼間に外を歩くのはけっこうきつい。空気も乾燥しているので、やたらのどが渇く。観光する地域はそんなに広いところではないので、ほとんど徒歩で用が足りてしまう。この時でもアメリカは喫煙に厳しいところが多かったが、ラスベガスは例外。街の中でタバコを吸っている人も少なくない。街が潤っているので、警官も多く、治安は悪くない。家族連れの観光客も多い。


ラスベガスを歩く(その3)…1996年夏2015/08/22 06:02

ジョン・リドリー著、渡辺佐智江訳
『ネヴァダの犬たち』
早川書房、1997年

   太陽の光は、ベガスが実は醜悪な街だということを見せつけるだけだから。

   ラスベガスは砂漠を切り拓いた街。空港とかグランドキャニオンを結ぶ道の途中でも砂漠の風景が見えた。サボテンもたくさん見ることができた。こんな街の中にも水道が通り、冷房がガンガン効いている。とても贅沢な街だ。この時は、冷房にもそんなに弱くなかったので、屋内は心地良かった。街路には熱帯の樹木が植えられて、南国風の雰囲気に魅力を感じた。