ナホトカ支線(シベリア鉄道)の寝台に乗る…1980年夏(その7)2022/02/01 14:35

A.ジノビエフ 作・画、川崎浹 訳
『酔いどれロシア : 戯画詩集』
岩波書店、1991年

<権力者への戒め>
権力者たちよ、教えれてやろう
国の平和はこうして保つ、
せめて一コペイカでも値を下げる、
パンではなくウォッカの。

なぜか郷愁を誘う写真。古びたオートバイにトラック。1980年だったが、日本では1960年代あたりの光景だろうか。小さな家がぽつぽつと建っている。夏だからいいようなものの、こうした地域で冬を迎えるのは大変だろう。それともペチカなどがあって、冬は部屋は暖かく逆に、日本の冬よりも快適かもしれない。ソ連もイタリアのフィアットと組んで乗用車を生産したりしていたが、なかなか欧米の車に比べると性能は悪かったようだ。乗用車を手に入れるために申し込んで、10年も待つなどという話も聞いた。


ナホトカ支線(シベリア鉄道)の寝台に乗る…1980年夏(その8)2022/02/08 11:14

A.ジノビエフ 作・画、川崎浹 訳
『酔いどれロシア : 戯画詩集』
岩波書店、1991年

<綱領>
教会と国家に酔いどれを各々分担させよう。
勤労者には自由に心ゆくまで呑ませよう。

これもちょっとした寂しい風景だ。ちょっと遠くに見える畑は小麦畑か何かだろうか。当時のソ連は農業が特にうまくいかず、小麦をアメリカなどから輸入するという事態に陥っていた。ただでさえ外貨が少ないソ連だけに、国民生活もその分、かなり貧しくなってしまったのだろう。コルホーズ、ソホーズなどという言葉は中学生あたりの社会の教科書に出てきたが、なかなか効率的な制度ではなかったのは明らかだ。ゴルバチョフなど農業政策で成果を収めた人物がソ連政府や共産党内で出世していた。ソ連にとって農業はアキレス腱と言われていた。


ナホトカ支線(シベリア鉄道)の寝台に乗る…1980年夏(その9)2022/02/15 10:09

A.ジノビエフ 作・画、川崎浹 訳
『酔いどれロシア : 戯画詩集』
岩波書店、1991年

<憶えておけ>
自然の歩みは酷く厳しく、
老いも若きもたどりつく。

これもいい写真が撮れた。たまたまボンネット型のバスが通った。日本でも昔はこんなバスがあったが、この当時にはすたれていた。このボンネット型のバスのデザインというかカラーはなかなかいい。のんびり、のんびり走っている感じだ。まだ政治的スローガンが出ているが、判読はちょっとできない。あまり洗練されていない街並みだけど、スローガンだけは威勢がいいというのは全体主義国でよく見かける光景だ。手前には花が咲いていて、とてもいい感じの写真となっている。いったいここがどこなのかはわからない。列車から撮った写真であることは間違いないので、ナホトカを出てハバロフスクに着く直前あたりだろうか。


ナホトカ支線(シベリア鉄道)の寝台に乗る…1980年夏(その10)2022/02/22 10:05

A.ジノビエフ 作・画、川崎浹 訳
『酔いどれロシア : 戯画詩集』
岩波書店、1991年

<予言>
民衆は最初はわめきたてるが、
例によって例のごとく鎮まり、
さて密造酒の消費は倍となる。

これは途中下車して撮った写真だ。ソ連共産党などいう文字を含む政治的スローガンが出ている。田舎の駅には間違いない。ナホトカとハバロフスクの間にそんなに有名な大都市はないだろう。ゆっくりと次の列車を待っているのだろうか。当然、私たちが乗っていたのは特急かなんかだと思うから、ローカル列車を待っている人たちだろうか。日本の駅だと自動販売機や立ち食いそば屋などがあるが、こうしたものもなさそうだ。朝食はこの列車で食べたことは覚えている。ただ、船酔いから始まって、あまり体調が良くない状態が続いていた。


ナホトカ支線(シベリア鉄道)の寝台に乗る…1980年夏(その11)2022/02/24 12:37

A.ジノビエフ 作・画、川崎浹 訳
『酔いどれロシア : 戯画詩集』
岩波書店、1991年

<科学資料によれば>
党の書記長だって助かりゃしねえ。
生き延びるのは酔いどれと鼠だけよ。

これはハバロフスクの空港。帰りの旅程だったと思う。空港は撮影禁止なのだが、みんなが撮っていたので、シャッターをおもわずきった。といってもあまりいい写真というか飛行機そのものが撮れなかった。行きのことはよく覚えているが、帰りのことはあまり覚えていない。もう帰るだけということになるので、あまり感慨もなかったかもしれない。帰りの船でも吐いてしまったが、もう日本に帰るだけなので、我慢するしかなかった。あまり写真も撮らなかった。