ドバイのアブラ…2006年夏(その2)2014/12/02 07:10

ベン・メズリック著、真崎義博訳
『ザ・オイルマネー-ドバイ原油先物取引所を創った新卒米国人青年の奮闘記-』
アスペクト、2008年

「ドバイでは、何もかもがビジネスなんです」彼はこう言ってディヴィッドの前を歩き、ターミナルを出てさらに混み合うホールに入った。そこには動く歩道があり、その先には大きな検査ゲートがあった。



   湾内でアブラのクルーズを楽しむ。アラブ首長国連邦の中のドバイ首長国は一番観光客も多く、自由度も高いようだ。ホテルなどでは外国人だとお酒も飲めるらしい。ドバイには他のイスラム国からの観光客も多い。目だけを出した衣装を身に付けた女性もけっこういた。アブラでのクルーズはあっという間に終わってしまった。朝一に出たので、だんだん陽が昇ってくる。そうなると徒歩で移動はきつくなる。その後は、どんなに短い距離でもタクシーに頼ってしまった。


高雄のフェリー…2007年夏2014/12/04 12:02

邱永漢著
『たいわん物語』
中央公論社、1981年

〈奴隷婚〉
   陳さんは我々を自分のオフィスへ案内し、展示室のなかの商品を見せてくれました。つくっている工場も見せてくれないかと要求すると、二、三、近郊の工場にも案内してくれました。台湾なんて、経済の発展も日本より遅れているし、フォーマルな服装だってまだ整っていないのだから、スポーツウェアなんかまだまだだろうと思っていたら、それが逆なんです。



   台湾の高雄にやってきた。日本から直行便があって、とても便利だ。旗津という島があって、市内からはフェリーが出ている。旗津はそんなに大きな島ではないが、なかなか味わいのあるところだ。旗後天后宮など見どころが多い。
   高雄から島まではとても近い。島にやってくると、海鮮料理店がやたら多く並んでいた。生きた魚が生簀にいたりして、見ているだけで楽しかった。旗後天后宮もいかにも台湾らしくて面白かった。短距離のフェリーだが、こういうものに乗ると旅した実感を味わえる。

ジョホールバル旅情(その1)…1998年夏2014/12/06 09:03

アブドゥッラー著、中原道子訳
『アブドゥッラー物語』(東洋文庫392)
平凡社、1980年

   さて、私の父はマラッカで育った。コーランの勉強を終えると、言葉と算数の勉強をした。



   フランスのパリを観光することが最大の目的だった。直行便がとれずに、シンガポール経由となった。帰りにシンガポールでたっぷり時間があったので、シンガポールも見ることにした。そして、さらにマレーシアにも近いことを認識して、国境をこえることにした。シンガポールは小さな国なので、あっという間にマレーシアに行けてしまう。

ジョホールバル旅情(その2)…1998年夏2014/12/09 10:46

アブドゥッラー著、中原道子訳
 『アブドゥッラー物語』(東洋文庫392)
平凡社、1980年  

   さて、学校にはさまざまな罰を課するための道具がそろっていた。それぞれ異なった罪のために、いろいろな罰があった。



   シンガポールからはバスが出ている。そんなに時間もないので、ジョホールバルに向かうこととした。その場で思いついたので、ジョホールバルという街についてもほとんど知らなかった。ガイドブックは見ていたが、シンガポール用のものだったので簡単な記述がある程度だ。フランスのパリの観光がメインだったのが、さらにシンガポール、ジョホールバルと3か国の旅になってしまった。

ジョホールバル旅情(その3)…1998年夏2014/12/11 08:54

アブドゥッラー著、中原道子訳
『アブドゥッラー物語』(東洋文庫392)
平凡社、1980年

   ミルン氏が最初にマレー語で印刷させたものは、アッラーが使徒モーゼにシナイ山で与えた十誡であった。  



   パリ、シンガポール、ジョホールバルと来たので、街の雰囲気の変化にちょっとついていけなかった。まだシンガポールはこぎれいな雰囲気があるが、ジョホールバルに来ると街の様相はすっかり変わってしまった。国境を一つこえただけで、こんなにも生活空間が異なるのだろうか。
   真夏だったので、日差しも強く、どこへ行っていいかも分からず、ただ散策するだけだった。やや怪しい雰囲気がする街だった。ただ、話しかけてきたり、何か勧誘をする人はなく、怖い目にあったわけではない。

ジョホールバル旅情(その4)…1998年夏2014/12/13 07:03

アブドゥッラー著、中原道子訳
 『アブドゥッラー物語』(東洋文庫392)
平凡社、1980年

   翌日、彼らに命じられて、中国人、マレー人、インド人のクーリーたちが集まった。およそ、二、三百人のクーリーがいた。


  
   シンガポールからバスで移動したジョホールバルの街を散策する。華僑が多いのだろうか。中華料理のお店がある。東南アジアは華僑が経済を握っているというのは前々から聞いていた。日本のODA支援にしても、華僑ばかりに恩恵がいっているとの批判もあるようだ。
   シンガポールは街路樹も多く、その木陰にくると涼しかったが、ここはあまり緑もない。夏の旅行で気をつけなければならないのが太陽光線と暑さだ。赤道直下に近いこの地域では、あまり無理をせずマイペースで歩いてみる。

ジョホールバル旅情(その5)…1998年夏2014/12/16 10:21

アブドゥッラー著、中原道子訳
『アブドゥッラー物語』(東洋文庫392)
平凡社、1980年

   この命令は、マレー人の間に不満を巻き起こした。私は至る所で彼らが不平を言っているのを聞いた。



   ジョホールバルの街中。ここにいる女性がイスラム教徒であることが一目でわかる。といっても、顔を全部隠すような衣装ではない。シンガポールに比べると、雑然とした雰囲気である。なにがなんだかわからないが、ひたすら街の中を散策する。
   華僑が多いのだろうか、漢字の看板もけっこうある。イスラム国ではアルコールが飲めないのだが、その厳しさは地域によって違う。ここは中国系も多いところだから、絶対にダメという地域ではないだろう。

ジョホールバル旅情(その6)…1998年夏2014/12/18 09:25

アブドゥッラー著、中原道子訳
『アブドゥッラー物語』(東洋文庫392)
平凡社、1980年


   私は恐怖で体が震えた。私は彼が静かにメスを刺すのを見た。


   これはショッピングセンターらしい。入ってみることはしなかったが。どうしても夏の旅行が多くなるが、もろに直射日光を浴びると元気がなくなってしまうこともある。日本とパリの直行便がとれなかった。フランスのパリからシンガポールに飛び、さらにバスでジョホールバルにやってきたわけだから、相当疲れていたことは事実だ。
   ただ、シンガポールも行ったことがなかったので、パリ旅行が主体だが、日本に帰る飛行機まで相当の時間があったので、シンガポールの街にも出ることにした。そして、マレーシアまで来てしまったわけだ。いろんな国を旅行すると、通貨が異なるので、財布の管理が面倒になることも事実だ。

ジョホールバル旅情(その7)…1998年夏2014/12/20 09:28

アブドゥッラー著、中原道子訳
 『アブドゥッラー物語』(東洋文庫392)
平凡社、1980年
 
   私の一生の間でも、幾つも私の知っているマレーの国が滅びてしまった。そしてある国は、象や虎の棲むジャングルになってしまった。



   これは市庁舎。それなりの雰囲気はある。観光スポットではないので、中を見物するわけにもいかず、外から見るにとどまった。シンガポールもこのジョホールバルも赤道に近いが、シンガポールは街中に緑が多く、木陰に隠れるとけっこう涼しい。街もこぎれいなので、気持ちもすっきりする。
   他方、ジョホールバルの街中は緑も少なく、ごちゃごちゃしているので、暑い太陽を浴びて、かなり疲れがでてきた。すぐシンガポールに戻るので、マレーシアの通貨を最初に両替することもしなかった。のどが渇くが、ジュース類を買う小銭もなく、炎天下の中をひたすら歩くことになる。

ジョホールバル旅情(その8)…1998年夏2014/12/23 07:36

アブドゥッラー著、中原道子訳
『アブドゥッラー物語』(東洋文庫392) 
平凡社、1980年 

   そのころマラッカに届いたニュースを聞いたが、それによると、シンガポールに沢山のアメリカ人の宣教師がつき、マレー語を習いたがっているというのである。


   このジョホールバルに行った前の年の秋に、サッカーの試合があって、日本が勝利をおさめて、ワールドカップ本戦に出場を決めたとのこと。実は、このジョホールバルを訪問した時には、そんなことはまったく知らなかったし、意識もしてなかった。そのサッカーの試合の頃は、仕事でもけっこう大変なことがあって、一番余裕のない時期だったこともある。
   だからジョホールバルって初めて聞くし、何かあるのかなと思っていたくらいだ。シンガポールとジョホールバルはコーズウェイという橋で結ばれている。料理店の惣菜を入れてあるガラスケースに車が映って、不思議な写真が撮れていた。