瀋陽地下鉄(その9)…2014年春2014/07/15 20:16

浅田次郎著
『マンチュリアン・リポート』
2013年、講談社文庫

   列車は満州の草原を、相変わらず十五マイルか二十マイルの速度で走り続けた。古い客車の電灯には水晶のグローブがかかっていて、ほのかなアルコール・ランプの光と影とを、単彩の万華鏡のように散らしていた。



   日本の地下鉄と同様に車内のパネルに次の駅が示される。扉の開く側にはランプが点灯する。ホームでは次の地下鉄がどのくらいで来るかも表示されている。
   中街の駅に到着した。繁華街だけに出入口もたくさんある。何となく賑やかそうな名前の表示があり、多くの人が歩いていく方向に進んでみた。その出口から地上に出ると、活気のある繁華街に出た。

瀋陽地下鉄(その1)…2014年春2014/06/26 19:55

浅田次郎著
『マンチュリアン・リポート』
2013年、講談社文庫

   稲妻が目隠しを透して光った。雷鳴が轟くのを待ってから、紳士はようやく名乗った。
「内閣書記官長、鳩山一郎です。今しばらく辛抱してくれたまえ」



   中国の東北地方については、ちょっと前に大連を訪問したことがある。その時もゴールデンウィークの直前に決めた。比較的短い日数で行けるし、急に申し込んでも飛行機やホテルを予約しやすいという利点がある。
   今回も同じような決め方だった。ただ、この旅行の主目的はは国境の街である丹東を見ることがメインなので、瀋陽の街を十分回る時間はなかったが、ホテルに着いてから、地下鉄で繁華街くらいには出ることにした。

北京地下鉄(その4)…2009年春2014/05/20 20:27

ベンソン・ボブリック著、日高敏・田村咲智訳
『世界地下鉄物語』
晶文社、1994年

   現在北京には、地下鉄のほかに、複雑さにおいてはローマのカタコンブに匹敵するトンネルが存在する。何百マイルもの長さのそのトンネルには、宿泊施設や炊事場や劇場や店舗が備わり、明らかに八百万の!住人を住まわせることができるのだ。 



    天安門広場を歩いた後は、王府井を散歩する。やはり地下鉄による移動が便利だ。昼食やお茶は王府井のショッピングセンターでとる。なかなか近代的な施設やお店が多い。ロシアやアメリカは1980年代初頭に訪問しているが、はじめての中国の都市である広州は1999年とちょっと訪問が遅くなってしまった。
   だから、みんなが自転車に乗って、人民服を着ているような中国は見たことがない。そんな中国に郷愁を持っている人もいるようだ。さて、これは北京地下鉄の駅の出入り口。やはり近代的なつくりでこぎれいだ。

北京地下鉄(その1)…2009年春2014/05/13 20:16

ベンソン・ボブリック著、日高敏・田村咲智訳
『世界地下鉄物語』
晶文社、1994年

   しかしこんな時代もあった。ほんの百年ほど昔のことである。そのころは、地下を移動するというアイディアが、西欧の町々においてほとんどいかなる諸問題をも差し置いて、その町で最も灼熱した討論を沸騰させるほどの論議の対象となった。



   中国ははじめてではないが、北京ははじめて。ゴールデンウィークの暦通りの休みの中で、何とか北京に行くことにした。ここも大都市だけに地下鉄が便利。
   しかし、ホテルは地下鉄の駅から相当離れていたので、ホテルからの出発はタクシー。タクシーの運転手は意外にしっかりしていて、要求もしていないが、領収証までくれた。天安門広場まで行って、それから徒歩や地下鉄を利用して北京市内を巡る。

広州・西漢南越王博物館(その2)…1999年春2013/09/17 20:21

青木五郎著
『史記 十二(列伝五) 新釈漢文大系 92』
明治書院、2007年

「南越列傳第五十三 史記卷一百一十三」
   戈船・下厲將軍の兵、及び馳義侯の發する所の夜郎の兵、未だ下らずして南越已に平らぐ。遂に九郡と爲す。伏波將軍益封せらる。樓船將軍(兵)は堅きを陷るるを以って、將梁侯と爲る。尉佗初めて王たりしより後、五世九十三歳にして國亡ぶ。



   これが一番有名な展示物。思わずぎょっとするような衣装だ。玉片とシルク糸で作られた絲縷玉衣という衣装。南越国というのは、紀元前200年頃から紀元前100年くらいまで約300年以上続いた王国でベトナム北部から中国南部までの領土を保有していた。
   秦の始皇帝が没し、各地が混乱したのに乗じて、この地域に南越国がつくられた。ベトナムと中国の南部、どんな国だったかあまり想像がつかない。いずれにしても広東語そのものも北京語とはかなり違うらしいし、広東あたりはベトナム的な風土もあるのだろうか。

広州・西漢南越王博物館(その1)…1999年春2013/09/14 07:48

青木五郎著
『史記 十二(列伝五) 新釈漢文大系 92』
明治書院、2007年

「南越列傳第五十三 史記卷一百一十三」
    南越王尉佗は、眞定の人なり。姓は趙氏。秦の時に已に天下を并せ、楊越を略定して、桂林・南海・象郡を置き、謫を以って民を徙し、越と雜處せしむること十三歳。



   香港から列車で広州にやってきた。当時は短い滞在でもビザが必要だったし、香港が中国に返還されてはいたが、実質上は別な国に入るのと同じだった。まだ中国に返還される前の香港にも来たことがあるが、その時とそんなに違いはなかった。
   さて、広州の見どころの一つである西漢南越王博物館に入る。とてもわかりやすい場所にあって、すぐに見つかる。南越国の王の墓が見つかって、これをもとに博物館がつくられた。1993年に完成しているから、比較的新しい博物館といえる。


北京の吉野家…2009年春2012/11/27 21:48

茂木 信太郎著
『吉野家』
生活情報センター、2006年

   吉野家にはファンが多いのか、多いとするとなぜなのか私が見るところ、吉野家のサービスの基本は、常連客対応である。この常連客に焦点を当てたサービスのあり方が、吉野家の居心地の良さを作り出すもとになっているというのが、私の見解である。



   今度は北京。ショッピングセンターの食堂街は大賑わい。生活水準がかなり高くなったので、外食も増えたのだろう。学生時代、中国からの留学生が増えていたが、彼らはよく自炊をしていた。大学の食堂で食べるとお金がかかったからだろう。
   さて、ここでも日本食はかなり普及していた。日本風のラーメン屋があったし、吉野家もあった。勿論、吉野家も大変な人気だった。若干日本と違うメニューもある。マクドナルドなんかもその国にしかないメニューがあるし、吉野家が外国用のメニューを考えてもおかしくない。

大連の吉野家、王将…2007年春2012/11/23 21:33

茂木 信太郎著
『吉野家』
生活情報センター、2006年

   東京地方裁判所は、1987年(昭和63)年3月、吉野家の会社更生手続きを終結を決定した。
(中略)
   倒産の原因は、何であったのか。
   つぶさに明らかにされている。それは、安くもない、うまくもない、牛丼を売ったからだと。では、いったいなぜ、安くもない、うまくもない、牛丼となってしまったのか。
   急激な店舗増設による牛肉需要の急増化に、牛肉の供給が追いつかなくなったからである。



  中国東北地方の大連。この街は歩いて回れるので、効率的に観光することができる。繁華街は賑わっている。外食産業も勢いがある。吉野家があった。わざわざ中国まで来て日本の牛丼とは思ったが、食べたくなってしまう。日本の牛丼と同じで大変おいしい。価格も日本と変わらない。ということは大連の人にとってはかなり贅沢な食事になるだろう。



 王将もあった。こちらには入らなかったが、日本の外食産業の意気込みをかんじることができた。経済が豊かになるにしたがって、食生活も変化する。特にアジア諸国は変化を簡単に受け入れる。インドなどはもう少し食生活に対して保守的なようだが。

北京の牛肉野菜麺…2009年春2012/11/13 21:52

野口一雄著
『中国の四季 漢詩歳時記』
講談社選書メチエ、1995年

<韓偓 手を詠める>
腕白く膚は紅なり 玉筍の芽
琴を調え線を抽きては 尖斜を露す
人に背きては細かに撚る 垂胭の鬢
鏡に向いて軽く勻のう 襯臉の霞



  ゴールデンウィークを利用して、北京にやってきた。オリンピックの翌年で少しは余韻も残っていた。ホテルはちょっと都心から離れていたので、タクシーでやってきた。天安門広場を出て、王府井のショッピングセンターに行ってみた。近代的な店が多く、あか抜けている。当然のごとく、レストラン街がある。
 そこで、麺類を注文する。「牛肉野菜麺」とメニューに書いてあった。牛肉と野菜がいっぱい入っていた。ボリュームたっぷりの麺である。昼食としてはこれで十分である。そんなにくせもなく、おいしく食べることができた。すでにこのブログに掲載したが、一緒に食べたデザートも巨大だった。ちょっと食べ過ぎである。

広州動物園の象と馬…1999年春2011/11/22 22:06

イソップ著、中務哲郎訳
『イソップ寓話集』
岩波文庫、1999年

358 ライオンの皮を被った驢馬
 貧しい庶民は富豪の流儀を真似てはならない、笑われたり身を危うくするのがおちだ、ということ。
 驢馬がライオンの皮を纏って、皆にライオンだと思われていた。人も逃げれば獣も去ったが、一陣の風に皮が剥がれて、裸の驢馬が現われるや、皆で襲いかかり、木ぎれや棍棒で打ちのめした。



   香港から列車で広州に入った。香港はこの訪問時の2年前に中国に返還されたが、やはり一国二制度ということもあり、香港と広州の間には物理的にも精神的にも大きな壁があった。広州の見どころを一通り観光した後、休憩の意味も兼ねて動物園に入った。やはり象はどこでも人気者だし、定番だ。


 それから原始的な馬もいた。プルジェヴァルスキーだろうか。それとも違う種類か。いずれにしても、馬はどんな種類でも目が優しいし、見ていてほのぼのとした気分になってくる。馬は人間がいなければ、滅びたであろう動物とも言われる。戦争、農業、牧畜など馬は人間のために厳しい労働に耐えてきたことも事実である。